第1部「開発編」(~41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目

    第1章 峠と海の向こう(生誕から18歳)

 ふたつの川、岩科川と那賀川が交って松崎港となる。この港は風待ちだけでなく、物
資の出入りが賑やかで、西伊豆於いて他の追随を許さぬほど栄えた。また、人と物資の
交流は意外なほど異質な文化をも生み、面白い人物が育つ。
 紺碧の駿河湾に接する白砂青松の松崎より那賀川を逆上って一里半、自生シャクナゲ
の南限、長九郎山の麓に豆州那賀郡大沢村(現・松崎町大沢)はある。
 土砂を川が運んで堆積を進め、山と山との中間を那賀川は蛇行する。その下流域には
ほどよい耕地が広がるが、上流の極端に狭まった個所が大沢村である。渓流沿いに数十
戸の家並みが川を挟んで並ぶ。この地は古来より湯煙がたち、渓流の音の絶えない静か
な村里である。
 伊豆では韮山の江川邸に次ぐ古い木造の建物が、依田勉三の生家である。大きな建物
で、豪壮というより質実さを感じるのは、そこに住んだ歴代の人柄であろう。また、幾
棟のなまこ壁の蔵は、往時の繁栄を偲ばせる。そして、今も水車は回り続ける。
 依田家由緒に「当家は源義仲の後胤、飛騨守を祖とす。出雲守正信、義忠の時、甲州
武田家に仕え、甲斐家東河内領宮木に住す。圓通寺開基の人也。二代後天正十年正房、
正義父子共に駿河江尻城より豆州大沢に潜匿。この地に永住す」と、ある。
 また、武田勝頼の配下で、天目山の敗戦により、この地に隠れ住んだともいう。
 勉三の父・善右衛門は、その十代目にあたる。いつの頃か知れないが名主を務める家
で、明治初期七十万円の資産があったと伝えられる。だが、一族は富に恵まれても生活
は質素で、徳のある金銭の使い方をした。
 この谷間の小さな村も、朝靄(あさもや)が一面にたち込め、遠くの稜線をそれより
透かし見るとき、不思議と広さが感じられる。やがて、おぼろげな太陽が顔をのぞかせ、
山と山の力で圧縮した靄を吸い上げると、幾つもの山が窮屈そうにひしめき合い、眼前
に樹木と共に迫って来る。
 幼い頃はさほどでなかったが、学問を始めてからの勉三は、この情景に息苦しささえ
覚えた。
 しかし、東背後にある大野山の茅野は、母に似て滑らかで黄緑色に輝き、勉三に快さ
を与えた。そして、この茅野からは大量の屋根葺き茅が生産された。茅は村の需要を満
たすと、余ったものは他村(よそ)に売られた。村には屋根葺き職人が多く、売られた
茅に伴って稼ぎが出来た。
 また、勉三の原風景となっているものに、冬場ここでの村人の共同作業がある。大野
山の稜線を蟻のように群がり、刈っては束ね、背負っては村里へ降ろす。一年で再生し
て村人を潤す茅野は、母としかいいようがない。自然が生み出すものこそ、本当の富で
あることを幼いながら心に刻んだ。
 勉三は、大沢の大家、名主の次男として大事な存在であった。だが、本当の次男では
ない。兄佐二平のすぐ下に庄助という男子が生まれたが、幼くして逝ったことによる。
またその庄助に続いて出来たのは三人の女児であった。勉三は佐二平より七年の歳月を
経て生まれたのだ。だから、ことのほか寵愛を受けて育った。なお、父・善右衛門は十
一人の子沢山で、彼はその真ん中、六番目の子供であった。
 勉三の幼少は、けっして活動的とは言えなかった。土蔵のなまこ壁の日だまりに膝を
かかえて佇むことが多かった。やさしい三人の姉たちは、怪我のないようにとままごと
遊びに誘った。
 一方、佐二平は、大家の総領として品格を保ちながらも餓鬼大将で、村の子供たちを
従える術を心得ていた。勉三も兄を真似ようとするが、なぜか手足が器用についていけ
なかった。また、自己主張がままならず、言葉より涙が先に溢れた。
 幼名は、佐二平が清二郎、勉三は久良之助といった。その久良之助はよく転んでは、
膝をすりむいて泣いた。
 父は、
 「久良之助よ、お前は嘉永六年、黒船到来の年に生まれだぞ。強い男にならないと、
毛唐に笑われるぞ。それにな、久良之助の名は、忠臣蔵からもらったのだ。忍耐強い、
後世に伝わる名を残せ。清二郎兄を見習って、何でも出来る人間になるのだ」
と、ことあるごとに繰り返した。
 やがて久良之助は、三余塾の入門帳に「安政乙末五月十五日 依田勉造 七歳」と、
あどけない文字で自書する。入門を機に勉三(造)と改名したのだ。
 土屋三余の妻みよは、松崎の依田「塗り屋」の出で、勉三の父の姉で、のちに結成さ
れる晩成社初代社長依田園(善六)の父善兵衛の妹にあたる。だから三余は、佐二平、
勉三、善六にとって義伯(叔)父である。
 三余は、本名を土屋宗三郎といい、業間の三余「冬は歳の余り、夜は昼の余り、雨は
時の余り」からとった号である。天保二年、江戸へ出て東条一堂の門を叩き、経史を学
ぶかたわら昌平黌の秀才らと交わった。この頃、勝海舟とも親交を結んだとも伝えられ
る。さらに、大沢赤城について音韻学を修めた。
 また三余は、幼少、松崎の浄感寺の寺小屋で、本多正観上人の手ほどきを受けた。江
戸へ出たては世慣れしていなかったので、何かとまごついた。だが、少しの時間の経過
で頭角を現し、諸侯から召し抱え話が舞い込むほどの学者となった。二度とはない己の
人生である。本格的な学問の道を極めたくもあったが、頭によぎるのは、常に武士から
軽蔑され、畜生のように圧迫され続ける故郷の民百姓の姿であった。もとより修学目的
が彼らを救うことにあったから、天保十年、二十五歳で帰郷しての開塾となった。
 「人の天分には上下の差異はない。従って士が貴く、農が賎しい理はない。ただ現在
の境遇に優劣あるは教育の有無によるのだ」を信条とした。風呂には年少者から入れ、
仕舞いに師である三余が入った。教える者、教えられる者の境界を除き、共に学ぶを実
践した。そして、塾生の個性を看破し、それぞれの性格に適った教え方がなされた。
 そのお陰か、愚鈍を思わせた勉三も、頭脳の靄(もや)が吸い取られ、持ち前の負け
ん気が頭をもたげた。
 余談だが、勉三が塾の実習畑の冬瓜に、おどけた目鼻を描いたという逸話がある。こ
れに対し、三余が正装して塾生とともに謝ったという。大方はこれを勉三の悪ふざけと
解釈するが、筆者は、彼の引っ込み思案の仕草と受け止める。
 やがて勉三は、学ぶことに貪欲となった。師の言葉に目を輝かせ、胸の真正面で受け
止めた。他の学友らは自己の家、身近に見える地域がまずの関心事であったが、彼は峠
と海の向こうの広い世界に興味を示した。
 三余とみよの間には、子宝に恵まれなかった。
 みよは、
「あなた、勉三を養子にもらい受けたら」と、言った。
 だが、三余は首を振りながら、
「私も勉三が欲しい。だがな、勉三は常識の範囲に収まる男ではない」と、目を細めて
その未来を楽しむ風であった。のち善六の弟準次を迎え入れる。
 文久三年、勉三 十一歳の時、母ぶんは亡くなる。
 彼の入塾前の印象しかない村人は、
「お可愛想に、ご愁傷様なことで……」と目を伏せ、つぶやくように声をかける。
 だが、自立心を芽生えさせた勉三は、これを疎ましくさえ感じた。どんなに慰められ
られても、あの慈愛深い母は還っては来ない。悲しみに耐えるには、他人の言葉は不要
に思えた。癒えようとする心の傷口が、再び剥ぎ出されるようにさえ感じた。そして、
一心に写経をしたり、僧侶の経を真似て唱え、仏壇に手を合わせ続けた。
 母の葬儀の日、やがて妻となるリクを勉三は初めて見た。まだ彼女は二歳で、薄桃色
の柔らかな頬が、表現のしようがないほど愛らしかった。そして誰はばかることなく、
母の胸をねだるのだった。その白くて大きな乳房にかぶりつくリクの唇を、彼は興味深
く眺めやった。やはりそこは十一歳、母への羨望がうずいた。
 当時、佐二平は江戸へ出て、大沢村領主前田家に住み込み、勤務のかたわら勉学にい
そしんでいた。彼は十八歳、母の葬儀の帰省中、十六歳のふじを娶った。病弱となった
父を彼女に委ね、七七日忌を済ますと、再び江戸へ旅立つ。そして二年後、その父も逝
く。
 このふじも、善六、準次、リク兄弟妹の「塗り屋」の長姉である。
 複雑であるが、やがて勉三の姉みさも善六に嫁ぐことになる。「不釣り合いは不縁の因
(もと)」という。身分の差が過ぎると、尋常な交際が出来なくて ぎくしゃくする。こんなこと
から、必然的と近郷の羽振りのよい大家同士の縁組となる。この地方では、嫁婿を相互
に取り交わすことを「亥の子の牡丹餅」という。
 このことで、リクと勉三は接近していく。
 逆上れば、松崎依田家「塗り屋」の始祖は、大沢依田家の三代目当主と同一人物であ
った。弟に大沢の家督を譲り、釣り好きが昂じて海辺に近い松崎に居を構え、別家をな
したという。
 勉三は、三余塾の休みには松崎への使い走りを自らかって出た。リクの顔を見たい一
念である。ぐんぐん成長していく彼女を見るのが楽しみなのだ。己の背中に乗せ、四つ
ん這いになって馬になる。レンゲ草を摘んでは花冠、浜辺に出ては桜貝を拾い、モミジ
の掌に持たせる。
 少しの年月を経ただけで、リクは黒髪香る美少女となる。これを勉三はわが手で造っ
た芸術品に思った。誰にも触れさせたくない、いとおしい誇らしいものとなった。
 慶応元年、 父・善右衛門が勉三 十三歳の時逝き、翌年、師・三余が没する。
 幕末の混乱は、伊豆の地にも巨大津波となって押し寄せた。勉三は父と師が存命なら、
進むべき道を示唆してもらえるだろうにと思う。この大事な時に、無為に過ごすのが口惜
しくてならない。
 勉三は、自家の土蔵工事に来た入江長八の顔を思い出す。今や江戸はもとより各地で
鏝絵で有名になり、左官の名工、日本一と称されている。また、宮大工石田半兵衛の子、
小沢一仙も敦賀から琵琶湖を経て大坂までの閘門式大運河を造ろうとしていることが、
耳に入って来る。
 そのように同郷人の活躍話を聞くにつけ、しきりに自分も一日も早く、天城峠を越え
なければ思う。その頃、佐二平は帰郷し、二十一歳の若さで大沢村の名主になっていた。
 十四歳の勉三は、世直し維新に役立ちたいと、熱い思いを佐三平に訴えた。
 だが、佐二平は仕事にかこつけ取り合わなかった。年端もいかぬことだし、情熱の赴
くままの勉三を野放しすれば、糸の切れた凧になる恐れを感じた。
 そして、佐二平は、
「やがて、混乱は鎮まる。その時まで待て……」と、言い聞かせた。