第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目
                                       

     第十章 勉三孤立す(35歳〜36歳)

 話を少し戻そう。
 明治二十年九月二十日、勉三は歴舟において佐二平と別れる際、不思議な孤独感に苛
まれた。銃太郎が出した建白書の結論が、伊豆へ持ち越されたこともその理由の一つだ
った。また、文三郎を伊豆へ返さなければと決意したこともあった。
 でもそれより、これまでに培われた動物的天候予知能力が、不安という信号を受けて
いた。
 一方、佐二平は、札幌農芸伝習所に合格した山本金蔵を伴い陸路を札幌へ向かった。
 勉三の能力は、不幸にも的中し、九月二十四日より霜が降り、二十六日、耕地全面が
濃霜で覆われ、作物はことごとく枯れ死んだ。
 それを潮目にして九月二十八日、銃太郎は勉三にも直接、幹部の辞表を提出した。だ
が、勉三は自分に判断出来ないと、伊豆での決済を待つよう答えた。
 三十日、高知県出身の長井新吉が帯広を視察に訪れた。彼はドイツに留学して十年と
いう農学士であった。帯広で会えなかった勉三は、釧路の宿舎まで押しかけ、ドイツ農
業について鋭い質問を浴びせ、開拓に役立たせようとした。
 その足で大津出張所へ寄った勉三は、親長と晩成社の会計をした。
 十月十四日、親長は帯広へ戻り、出張所は主に幾太郎が担当した。勉三は生花苗や帯
広へ行ったり、大津で社用や会計をした。
 なお、霜害視察に帯広へ帰った勉三に突き付けられたものは、次の文面であった。

       御    願
今年の気候も昨年と大差なからんとの謬見(びゅうけん=あやまち)相立て、かつは御
社の御旨に添わんかと本年は主に大小豆を播種いたし候ところ、九月二十四日の初霜よ
り数回の濃霜にて大害をこうむり皆無と相成り落胆仕り候。
これに加えて麦粟は半作に過ぎず、玉蜀黍は不熟、稲黍は霜害にて収穫これ無き候、こ
の分にては来年収穫時までの食料不足いたし候わんかと一同心配罹(うれ)え候。
右の有様に御座候間、御社への上納品欠乏いたし、ほとんど当惑つかまつり候、数度の
哀願なんとも恐れ入り候得ども実情御燐察、本年の地代御差し免し下され度く、偏に懇
願つかまつり候。                          以 上
   明治二十年十月十七日

 これには勝、銃太郎を含む六名の記名、捺印がされていた。
 これにも勉三は、即答をさけ、無表情に伊豆での決済を仰ぐと受け取った。
 そして、十一月十三日、勉三は藍作と、種牛拝借のため、大津を発って札幌まで乗馬
したり、徒歩で向かった。十九日到着、近傍の製藍業を見聞し、道庁へ日参して種牛借
用を申し入れた。
 その許可は二十八日に発令され、製藍業者山木を雇うことに成功し、同日、札幌を発
ち真駒内へ行った。ここで牧夫を雇い、種牛を牽かせることにした。
 だが、三十日は吹雪となり、十勝まで牽く困難さを思った。そこで役所に返上願いを
出し、一時預けとした。それよりソリなど利用して、十二月六日、山木と生花苗に着い
た。
 十二月十九日、文三郎と別れる時が来た。弟の後ろ姿は妙に寂しく、見送る勉三は強
い孤立感に襲われた。

 明治二十一年元旦、勝の家は、勉三とは逆に賑やかであった。前年五月、宮崎濁卑に
代わって伏古別と音更のアイヌの農業世話人になっていた。そのためアイヌの年賀の客
が多かった。
 勝は、格別な人情家でアイヌの人たちに絶大な人気があった。ニシバ(親方)と呼ば
れて同化し、家庭を省みることが少なかった。また、この年四月、芽室太世話人に就任
する。
 このころの開拓は、まず土地を測量して地所開墾につき御下付願い提出、許可されて
開墾に入るのである。そして、開墾が終わって再び役所へ調査願いを出し、検査して成
功と認められて無償払い下げとなるのだ。また、役所で造る道路以外は、自分たちが作
業しなければならなかった。排水や橋についても同様だった。それもこちらが道路開削
願いや橋梁寄付願いを提出、これが認められての着工であった。
 四月十日、勉三は道庁あて「道路開削願い」、郡長あてに 野火に対する「御嘆願書」
を提出した。前者は生花苗付近道路で、「六月より十一月まで、農隙の際 自費を以て」
と、付記した。
 後者は、
          御 嘆 願 書
昨明治二十年五月ごろ当縁郡当縁村字オイカマナイ山野に於て商人、土人等鹿角集拾の
ため放火に及び候趣にて連日相焼け、山林大いに損傷いたし、また当牧場まで延焼相成
り事もこれ有り、甚だ難渋仕り候、しかるに本年も最早その季節に相成り候えば本月二
十日ごろより放火相成りべくと心痛仕り候、もししかる時は当牧場内外に論なく林木何
分の枯損を来すべきは昨年の実験によりて明瞭に御座候、従って当地へ永住仕り候当社
員の如きは往々薪炭、牧柵、建物等用材にも差し支え候様、相成べくは当然の至りに御
座候間、右放火これなき様御保護くだされ度く嘆願たてまつり候也。
   明治二十一年四月十日
                   十勝郡当縁郡当縁村 依 田 勉 三
  当縁郡長 宮 本 千 万 樹殿

これを出した直後、二十一日、皮肉にも生花苗牧場が野火に見舞われた。
 勉三は午前中、建設中の橋を監督し、山羊の皮を剥いだ。午後は放牧された牛を見て
回った。遠くに煙のたつのを見たが、気には止めなかった。だが、日暮れて風は強くな
り、火勢はいよいよ増して近づき、夜半、山羊が号泣した。
 勉三は、起きて医学書を読んでから薬を飲んだ。近ごろ頭痛持ちになっていたのだ。
醒めかかった目をこらすと、遠くの牧場が火の海になっていた。翌日も続き、二十三日
早朝には一面黒い灰の世界となった。
 勉三は、文三郎が身近にいてくれたらと思った。続々と己に襲いかかる不運には身内
の協力者が欲しく、立ち往生する思いであった。
 だが、じっとしていられないのが彼の性格である。何かを仕掛け続けなければ気が収
まらないのだ。
 早速、札幌の道庁長官あて筆をとった。

野 火 禁 止 願 書
「もし閣下、以上の陳述は抑揚度に過ぐると思い給わば、願わくば一官を当国に派せら
れ、親しく灰燼の中を経覧せしめば山林の枯槁、その他、思い半ばに過ぐるものあらん
か。また放火を止むるが如きは格別の手数を要せず、容易の事なるべし。伏して願わく
ば閣下、山林に民財になお一層御保護のあらせられん事を涕泣哀願するところなり。 
                                 誠惶謹言」

 二十七日にも野火があり、勉三は放火犯を捕まえて大津警察分署へ連行したが、証拠
不十分で無罪放免となった。
 勉三は、こんな時にも生花苗にリンゴを植樹し、ドイツ麦、裸麦、粟、稗などの種を
蒔いた。
 六月三日、勉三は湧洞で船越千葉県知事、細川理事官、大井上典獄らに面会した。よ
うやく十勝が注目されつつあることを感じ、それが救いとなった。帯広に監獄が出来そ
うな予感がした。
 七月四日、勉三は種牛を連れて帰るため生花苗を発った。陸路を札幌へ向かい、この
日十五里、翌日十五里を歩いた。そして次の日、馬で二十五里を行き、夜十時、札幌本
庁前、吉田方に投宿した。
 翌日午前、諸氏を訪れるが、不在や会うことを避ける人物があり、誰ひとりと面談出
来なかった。午後は製藍業者から詳しい説明を受けた。
 九、十日は道庁で、種牛拝借を申し入れた。昨年の前例もあり、話は順調に進んで、
午後は真駒内へ行って牛を見た。
 その晩、勉三の宿に山本金蔵が訪れた。一年近く顔を見ていなかったので、その成長
ぶりに目を見張った。一人前の容貌となり、自信に満ちた眼光が印象的であった。勉三
は農芸伝習所の様子を興味深く聞いた。やはり伝習所の教育は、開拓の先駆けになる印
象で、やがて十勝に花が咲き、稔る期待が持てた。
 十二日、勉三は牛を預け、単身札幌を発って鵡川泊、十三日三石、十四日幌泉、十五
日広尾のコースをたどり、十六日生花苗に帰った。
 十九日、文三郎が先月同日亡くなったという訃報が届いた。勉三にどうしようもない
寂しさが襲った。月の忌日であり、早速、仏前に調理したものを供えた。そして、合掌
をしていると、文三郎が入地の際連れて来た洋犬が一声吠えた。勉三は彼の死を無駄に
するまいと心に誓った。
 二十四日、勉三は帯広の道路開削の用件で、生花苗より帯広へ向かった。そして、道
庁派遣の測量師などと打ち合わせをした。徐々に十勝野の胎動は聞こえ出し、測量人夫
など大挙して押しかけるようになり、晩成社は小屋を与えて泊まらせた。
 八月二十八日、勉三は生花苗を発ち、牛の購入のため陸奥へ向かった。大津、釧路、
函館、青森のコースをとった。
 九月六日、青森に上陸し、陸奥に足を入れた。そして、二十九日まで馬門村などで牛
の買付けをした。足元を見透かされないようにする商いのコツは、勉三にとって難かし
い仕事であった。その数四十頭は言い値であり、高い買い物か、安い買い物かは判然と
しようもなかった。
 十月六日、牛は二隻の船に乗せられ、下北半島の易国間(いこくま)を出港、勉三も
同乗して函館に着いた。そして、牛はそのまま生花苗に向かわせ、一方、勉三は単身、
室蘭より札幌、そして真駒内で、官有牛「ハイグレード号」を借用した。
 それを現地で雇った牧夫に追わせ、共に苫小牧経由、陸路を生花苗牧場へ十月二十六
日に着いた。
 一方、陸奥からの牛はそれより遅く、十一月三日生花苗に着き、沼の辺りに放牧され
た。四十頭は群れをなし、牧場としての体裁を整えつつあることを、勉三は大いに満足
した。また、留守中、大津より来ていた幾太郎もうれしそうにそれを眺めた。
 なお、九月二十日、測量師の肩書を持つ内田瀞が帯広を訪れた。一行は勝の家に泊ま
って調査した。
 その時の内田レポートは、
「帯広川のパトラ河畔に接し、農場あり。晩成社という。農六戸その業に従事す。現今
四境に人なく、実に寥々たる景況なれども……」
 と、ある。
 これより道庁も十勝の植民地貸し下げ、市街地構想にようやく腰を上げるのだが、日
清戦争などの準備に国力が傾注され、全面的バックアップに至らなかった。

 幾太郎は、勉三の顔を見て気が緩んだのか、急激に体調をくずし、十一月十六日、伊
豆へ帰って行った。ややして文三郎同様、不帰のひととなった。そして、大津出張所後
任には長倉夫妻が当たった。
 十一月二十八日、勉三は生花苗より帯広へ向かった。
 十二月一日、勝の家に着いた勉三は、社員を集めて地代の請求をした。だが、逆に一
同は今年も激霜に遭い、不作だと免除を申し立て、初二郎は勉三に「冷血の鬼」と、罵
倒を浴びせ、勉三は唇を噛んで辛うじて耐えた。少しはなだめてくれるだろうと期待し
た勝も、ただ黙っていた。
 二日、勉三は帯広をあとにするが、孤立無援を感じながらの馬上であった。馬は乗る
人間の心を写し、ふらりと水たまりに足を取られた。すると彼の体は宙に舞い、水中に
落下した。その夜アイヌの家に泊めてもらい、四日、生花苗に着いた。
 三十日、勉三は広尾で戸長に百五十円を返金、大晦日は夜道を歩き生花苗へ戻った。