第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目


     第11章 リク戻る(37歳〜39歳)

 明治二十二年一月七日、勉三は生花苗にいて会計事務、雇い人らと伐木の山林や、牛
を見回った。
 そして夜、
   頒暦迎春新歳加  団欒酌酒祝王家
   東皇駕未到辺境  積雪擁門埋弊店
 と、詠じて、十勝の開拓を成功させ、天皇の行幸を待つという、強い信念が感じられ
る漢詩をものにした。
 二月二日、寒暖計は零下十六度を示し、午後、豚が十頭の子豚を生んだ。うち一頭は
死んだが、勉三は九頭を世話して、母豚の乳房を等分に吸わせた。命あるものが増える
ことは、大いなる勇気がもらえた。
 翌日は節分で、豆まき用の豆十二粒を月名をつけ焼いた。一、二月は三分の二荒れ。
三、四、五月は晴れ。六月は三分二荒れ。八月晴れ。十一、十二月晴れと出た。だが、
九、十月はどうであったか、日記をつける時どうしても思い出せなかった。肝心の霜害
の多い九、十月を忘却したのが、不思議でならなかった。
 勉三は二月二十六日、大津出張所へ行って社用をした。二十八日雪が止んだので、生
花苗へ帰ろうとするが、雪は五十センチ積もり、道筋を消して歩けなかった。そこでや
め、出張所の屋根や戸外の雪かきをした。また、翌日も湧洞を歩いて過ぎたが、雪のた
め山を越すことが出来ず、戻って湧洞に泊まった。
 そして三月二日午後一時、勉三はようやくにして帰宅した。だが、疲労が激しく、感
冒にかかり寝込んだ。
 三日、勉三は父の二十五回忌の真似事をした。本来一月三十日が命日なのだが、時期
を失してこの日となった。風邪のため微熱のある手を合わせ、目を閉じた。
 瞼の裏に写る父は、
「久良之助よ、毛唐人に笑われるな。辛抱すればやがて報われる。我慢強くな。兄を見
習え」
 と、あの時と同じように、声をかけて来た。
 父は、今の自分をどう評価してくれるだろうか。もし、母が存命なら、甘えん坊の自
分は、その懐から羽ばたけなかったことだろう。泣き虫、虚弱体質、小胆で不器用、百
姓に素人だからこそ、耐えられる不思議さを思った。
 三月二十二日から四月末日まで、生花苗では母子牛合わせて二十頭が死んだ。深雪、
寒さと乾草不足が原因であった。勉三は、この飢餓を食い止めようと屋根の茅を抜き取
って煎じ、また、自分たちが食べる米麦も与えたが、この結果となった。ある時は、
牛が雪中で倒れている報に、乾草、酒、鶏卵をソリに積んで運んだ。しかし、雪が粘っ
て前へ進めず、途中より背負ったが、現場に着いた時、既に牛は死んでいた。でもその
日、本年第十号目の赤毛牝が生まれた。
 六月四日、勉三は生花苗の自宅で、三月以来亡くなった牛を祭り、あわせて家人の労
を感謝して仕事を休み、酒食を共にした。
 そして、小山の頂に「祭牛之霊」という石塔を建て、
「この年三月に牛の飼料がなく、出産間近の牛も多いこともあり、他の牛は雪野に放置
した。牛は食物がなく、小屋の茅など十日間ほど与えた。外で二頭、屋内四頭、仔牛六
頭、死産四頭、胎牛二頭、山落二頭を斃死させた。通計すると成牛八頭、仔牛十二頭な
り。ああ、この飼主の罪は甚大である。今後の誡めのため、
                  明治二十二年六月四日  依 田 勉 三識」
 と、碑文を刻んだ。
 これより先、四月中旬より生花苗では笹刈り、藍作り、玉蜀黍、大小豆、扁豆、粟、
粳粟、葱、玉葱、ビート、馬鈴薯、甘藍などを植え付けた。また、勉三は牛に悪戯をす
るカラスを捕らえたり、酒、草鞋作り、牛馬の睾丸抜き、祭牛山へ桜の苗木を植えた。
 六月下旬、勉三はのちの函館の「丸成牛肉店」の主任となる田村鉄也と、生花苗地所
願書や製図した。

 リクが生花苗に戻るとの報に勉三は、内心小躍りした。
 八月十八日、彼女を迎えるため生花苗を発って大津へ向かった。ここで出迎える心づ
もりであったが、まだ到着していなかった。一刻も早くリクの顔を見たいと、尺別まで
懸命に歩いた。だが、ここでも出会えず、既に日暮れ、やむなく尺別に泊まった。
 翌十九日、白糠、ついには夕刻、釧路に達した。勉三は本間家へ寄って衣服を借り、
リクや佐二平らと再会した。なお兄は、近藤正鉄、高橋次郎、高橋清次郎、平岡四郎、
松平毅太郎を伴っていた。
 正鉄は、松崎で近藤(松下)医院を営み、株主総代の資格で開拓地見分が目的であっ
た。
 なお、次郎は、静次郎、四郎、毅太郎を、勉三の家人にするための引率役であった。
 勉三は、リクの顔色を見て安堵した。伊豆の暖かさで血の気を生み、美しさが戻って
いた。そして、医師の正鉄に心から感謝した。これまで味わった孤立感を思うと、彼女
は己の側にいてくれたらよし、今度こそ大切にすると誓った。
 勉三の戸籍には、数名の養子、養女がいる。この時点では十八歳の男子と、生まれた
ばかりの男児が入籍されていた。毅太郎は、駿東郡富岡村生まれで、勉三の養子として
入籍された。なお、生後間もない男子は、十勝へ来ないまま除籍されたが、勉三はリク
の体では、子が授からぬことを予測してのことであった。
 佐二平、正鉄、次郎らは、勉三の案内で生花苗を見た。
 そして、リクを生花苗に置き、一行は帯広へ向かった。それに勝が加わり帯広地内を
巡回した。
 八月九日、勉三ら一行は澁更へ行って銃太郎の開墾地を見た。銃太郎はいつもとわら
ず、一行を出迎えた。途中より雨となって歩くのに難儀し、大川を渡り放牧の豚を見る
と、大いに繁殖しているのが見えた。そして、夕暮れて勝の家に着き、カネの歓迎を受
けた。
 十日、一行は帯広を発った。正鉄と次郎は川を舟で下ったが、佐二平と勉三はアイヌ
の人たちと社馬十一頭を追った。山道を南へ進み、夜十二時、生花苗に着いた。 
 十六日、佐二平と勉三は、鳥沼を測量して日暮れて帰った。また、翌日は豊似まで行
って鯨見学をした。
 二十一日、佐二平と勉三は、生花苗地内の家屋建設について話し合った。そして、夕
刻より佐二平らの送別会を開いた。リクの笑顔が美しく接待して、主客、家人十一名は
賑やかに会飲した。食後は談話し、演説まで飛び出して、互いの意気軒高さを示し合っ
た。また、勉三はアイヌに頼み「カモイ飲」という儀式をやってもらい、一同はそれを
楽しんだ。
 二十三日、佐二平と正鉄は、伊豆へ向かった。家人は馬にふたりを乗せて日方川まで
見送った。
 勉三は、翌日よりアイヌの人たちの会計をし、雇い入れ方について研究した。半分を
再び牧場で、残りを大津漁場で働かせることにした。
 この年、帯広地方の初霜は九月三十日であった。勉三が戸長役場に提出し、明治二十
二年「帯広村収穫諸費取調書」は、
 一、瓜哇薯    百八十三石     一、粟    三十九石六斗
 一、豌 豆       三石八斗   一、小 豆    六石一斗
 一、大 豆     二十 石七斗   一、大 麦  三十八石四斗
 一、小 麦      十三石七斗五升 一、煙 草 百四十七斤
 一、稲 黍       七石四斗   一、蕎 麦      九斗五升
 一、燕 麦     二十四石
 一、金三百円 穀物、豚、鶏およそ売高 一、金三百円 諸入費およそ高
 と、なっている。
 やがて十勝農民の主食となる稲黍が登場したことは、一条の光であった。また、帯広
で澱粉製造が本格化したことも特記されよう。

 明治二十三年元日を、勉三とリクは生花苗で迎えた。夫婦が無事でいられる幸せを祝
して盃を合わせ、家人らと酌み交わした。そして、勉三は午前十時に湧洞へ年始に出掛
け、日暮れて帰宅した。なお、家人らは鶏肉を洋風に料理して夕食とし、毅太郎ら若者
が増えたことで、食後はトランプをした。リクの笑顔もあり、穏やかな正月となった。
 五日より勉三と毅太郎は、晩成社生花苗開拓地を測量、製図をした。これはほぼ一月
いっぱい続けられた。
 二十九日、勉三は広尾役場で、毅太郎の養子縁組成立との送籍と、彼の札幌農芸伝習
所入試願書を提出した。
 二月五日、勉三は帯広へ行こうと、生花苗を出て大津に泊まり、六、七日、そこで社
用をした。この月は珍しいに暖かく、雪より多く雨が降った。それにより積雪が浅く、
中旬に雪が消え、例年四月下旬の暖かさとなった。
 八日午後、勉三はアイランケを伴って大津を発ち、九日夜八時、帯広の勝の家に着い
た。翌朝、アイランケを使いにやり、村中の者と澁更の銃太郎を招集しようとした。そ
して、来た者に晩成社の方針を伝え、地代納付念書に捺印させた。
 一同が去っても銃太郎は顔を見せなかった。夜になって現れ、不服面で「明日来る」
とだけ言って去った。次の日も待つが、午後、代理だと親長が訪れた。銃太郎は直接、
勉三と顔を合わせれば激論となるため、それを避けたらしかった。親長もその間に挟ま
って苦悩の末、夜になって調印した。なお、この日も勉三は勝の家に泊まった。
 十二日、勉三は勝の家を出て、途中アイヌの人を雇おうとするが、応じる者はなかっ
た。泊まった家では子供が大病だといい、翌朝、家を出た時、女たちの号泣が聞こえ、
その子が死んだことを知った。また、その日も各村落を歩くが、応じる者はなかった。
十四日、大津へ着くが、感冒にかかり気分悪く、昼食後は出張所で寝込んだ。
 それでも十五日、勉三は起き、善六あてに手紙を書いた。その内容は大津出張所にお
いて商業を営みたいので、規則を改定したいという主旨であった。この時、出張所責任
者Tが、健康を理由に辞表を出した。Tの日頃の勤務態度もあり、これを即座に受理し
た。そして、十七日、生花苗に帰った。
 二十一日、勉三は毅太郎を伴って釧路へ向かい、その日大津、次の日尺別に泊まり、
二十三日釧路に着いた。毅太郎と縁組が結ばれたこともあり、実の父子のように仲睦ま
じかった。なお、毅太郎は十八歳、生まれ育ちもよく輝くような青年であった。勉三は
真の後継者となって欲しいと願った。
 勉三が付き添ったのも、札幌農芸伝習所の入試のためであった。この伝習所は官費で
賄われ、人気があって狭き門となっていた。
 勉三は親馬鹿ぶりを発揮して、郡長に毅太郎のことを頼み、翌日も彼の身体検査に病
院まで付き添った。そして毅太郎は郡役所で試験、勉三も同所で地所のことを尋ねた。
 二十六日、釧路を発って、ふたりは二十八日に生花苗に帰った。
 なお、既に十八歳の養子があったことを述べたが、この年に除籍されている。また、
毅太郎の伝習所の合否は、勉三の日記にないが「五月在宅」とあり、不合格の可能性が
高い。
 三月十四日、勉三が生花苗で会計をしていると、夕刻、佐藤米吉が雪ゾリに乗せられ
て来た。勉三は異変を感じて外へ出ると、米吉は重傷らしく意識朦朧とし、僅かにこち
らの言葉に応じるのみであった。聞けば山で木を伐採中、倒れた木に打たれたという。
急いで長屋へ寝せるよう指示したが、容体は悪くなるでなく、翌日も小康を保った。
 十六日、外は雪になり、勉三は何時に変わらず会計にかかろうとした。その時、使い
が来て「米吉が会いたがっている」と告げた。勉三は早速、長屋へ行って米吉の手を握
りながら話し、米吉は目のみであったが、勉三にだけ意志を通じらせた。それより勉三
は十分に看病した。
 なお朝方、勉三は大津の医師に往診を頼もうと、使いを出した。だが、使いの者は午
後二時、医師を連れずに戻って来た。医者が不在だという。なお、架橋工事で人夫が足
を負傷する事故があった。
 十七、八日と米吉の容態は変化なかったが、十九日急変した。勉三が行って手を触れ
ると大いに温もりがあったが、やがて息を引き取った。勉三は悲しみにしずんではいら
れず、雇い人を広尾役場へやり、死亡届を出させた。そして二十一日、米吉の遺体を牛
祭山に埋葬した。
 なお、後日談になるが、勉三は大津の僧侶を生花苗へ招いたり、大津本願寺へ出向い
て読経、供養をしている。
 また、大正三年、
     智 明 禅 定 門        佐藤米吉墓
「米吉は、秋田県由利郡上川内村、佐藤兼平の二男なり。傭人伊藤菊松の一団となって
入山、伐木中誤って木に打たれ、病臥六日、明治二十三年三月十九日ついに没す。
  大正三年三月                      依 田 勉 三建」
 という、立派な石塔を牛祭山に建てた。

 四月は連日雨で、生花苗付近の川は増水した。勉三は、夜中に起きて建造中の橋材を
引き上げたり、大工らに橋の流失を防ぐよう躍起となった。また、金鉱を発見したとい
う人物が現れ、勉三に協力を求めたりした。
 五月三日、勉三の自宅から失火する災難が襲った。
      始  末  書
「五月三日午時、家族僕婢その他十余人会食す。休一休して各場につく。また子供は外
に出てすべて台所を距ること六十間ないし百間の地位に散じ、台所に残るは炊婦一人、
四歳童一人、居宅の室中に拙者と妻の二人なり。 
 この日、拙者、妻とも不快を以て同一時後、婢に命じて粥を作らしむ。しばらくして
婢は粥の成るのを告ぐ。余ら出でて食せんとす。(ただし 味噌を入れたりと。余叱して
言う。味噌を入るは粥にあらず、余の命を違えるを責む。よってなお台所に行かず居室
にいる。おおよそ十分間、時に二時なり=日記)婢俄然驚呼して火事を報ず。拙者台所
に至る時、大釜の脇茅囲に火を発す。ただしその際火は誠に小にして幅一尺、高さ四尺
位に燃え上がりたり。
 拙者流し槽の水を注がんとす。しかるに風急にして火の俄に炎上するを見、荷物を外
出すべきを思う。これよりすべて出荷に尽力し他を省る暇あらず。もっとも風急なるが
故、台所屋根に火上がりたるときは、すでに豚舎および川向うの雇夫舎に延焼し、倉庫
および家族別宿舎等は一円煙炎の中にありたりと思えり。
 家人追々馳せつけおのおのの出荷に尽力し、あるいは半ば荷を戸外に出す。家すでに
火となり、従ってその荷を他に運ばんとするに荷もまた火となる等、火の急なることお
よそ一時間なり。その前豚舎、雇夫小屋、雪隠(便所)は焼け落ちたり。この時豚四頭
斃死す。これにおいて屋側の材木につきたる火などを消滅に尽力し、また僅かに出した
る荷物の再燃を防ぎ、居宅、台所、倉庫、別宿舎の余燼を撲滅に尽力し、およそ一時間
半にして全く鎮火せり。
 右鎮火後、発火原因を推考するに大釜は毎日牛飼養のために豆蒭を煎るを常とせり。
故に家人に命じ火の元を大切にいたさせ、また拙者も常々注意せり。しこうして本日の
如きは暴風のため、ことに注意を加えたれども、午後に至り俄然発火したるは、大釜の
下火の燃え残りこれあり、それより自然茅囲へ燃えたるものと推考つかまつり候也」
 と書き、警察署へ提出した。
 だが、これは警察の手間をはぶき、雇い人に罪が及ばぬようにした恩情であった。実
はMが燃えた木を持って台所の側を通り、風呂を焚いた時に落とした粗相火であった。
 勉三は、鎮火後の午後三時半に湧洞へ行き、火事のあったことを報告し、諸道具を借
りるという早業をした。また、湧洞の人たちから見舞いとして米、味噌、鮭、食器など
贈られた。
 続いて十六日夜、野火が生花苗牧場近くまで迫り、その警戒に一同は当たらなければ
ならなかった。
 六月六日、勉三が大津出張所へ向かう途中、鉄板を生花苗へ運ぶ家人や人足に出会っ
た。彼らは鉄の重さに堪えかね、元の道を戻ろうとするところだった。勉三はこれを諭
して生花苗へと運ばせた。なお、大津の勉三は、火事見舞いをしてくれた人達の家を回
って礼を述べた。
 七月十五日午後五時、秋田より大工四名が生花苗に来た。この日は開拓記念日で、餅
をつき、家人らに手拭を配り、酒を振る舞った。翌日も休業で、午前中より酒宴が開か
れた。
 なおこの月、佐二平は第一回衆議院議員選挙に当選した。
 一方、八月十五日、帯広の勝の家に珍客があった。イギリスの画家で探検家ランダー
が世界一周の途中、足を十勝へ踏み込んだのであった。勝、カネ夫妻とも英語が堪能で
ランダーは驚き、三日間滞在した。そして、謝礼に勝の家を油絵にして贈った。また、
アイヌの骨格計測を勝に頼み、後日、勝がデータを送付すると、翌一月、インクスタン
ドなどが贈れて来た。
 また、八月二十三日夜、生花苗の人夫小屋が焼失した。勉三が床について間もなく、
ひとの騒ぐ声がするので戸を開けると、川向こうの小屋が燃えていた。すぐに着替えて
外へ出ると、雨を交えての強風であった。それに煽られ、見る間に全焼するのだった。
この際、住人Yの姿はなく、粗相火なのか、放火なのか判然としなかった。
 三十一日、陰暦七月十六日の盆に当たることから休業した。リクはかいがいしく、他
の者と調理して家人に酒、素麺、赤飯を振る舞った。
 それもつかの間、九月三日よりリクは床につくようになった。そんな夕刻、親長に帰
京を促す妻ナオが、親長を伴って帯広へ行く前に生花苗に寄った。
 親長は、生花苗の様子を見て、五月の火事や種々の災難にめげない勉三の不屈の精神
さに感心した。幾度不幸が襲っても、何時の間にか押し返しているのだ。今も大工を入
れ、建築の槌音を絶やそうとはしない。
 中でも二月以来、地下六メートル五十を掘り下げ、そこから横道五十メートルを掘り
進めるという大規模な井戸堀りをしていた。これは夏になると増える病気の原因が、水
質にあると思っての工事であった。
 叱咤激励したといっても、報われることの少ない開拓に精根を込める、勉三の精神に
感服する親長であった。また、わが子銃太郎、カネ、勝にも同様な思いであった。
 一方、親長の妻ナオは、こんな草深いひと気の稀な土地に生きる者に、酔狂さを感じ
た。それにつけても、病弱の身でこんな辺地に耐えるリクを不憫に思った。
 帯広への途次、彼女は親長の耳元で、
「あなた、リクさんを連れて帰りましょうよ。このままでは短命間違いなしよ」
 と、言った。
 九月九日、帯広の地に未曾有の大雨が降り、洪水となった。
 ナオは、ここで幾多の災難に見舞われながら、貧相な暮らしをするわが子らに呆れる
ばかりだった。おまけに次男の定次郎までが、十勝を目指しているのだ。
 十月十五日午後二時、大津から生花苗へ馬二頭が雇い人に牽かれて来た。途中、川尻
で一頭が溺れかかり、塩や荷物を濡らしてしまった。その中には故郷から送られた毅太
郎や四郎の衣類が入っていた。
 この晩、勝と、銃太郎の弟定次郎が生花苗に泊まった。翌日、彼らを勉三は牧場内を
案内した。
 そして十七日、勉三は勝と共に釧路農産物品評会出品目録について相談した。
 十一月一日、釧路において品評会の開会式があり、勝が晩成社代表として出席した。
それより前、勝は一旦帯広へ帰り、出品物を用意して二十八日、帯広を再出発したのだ
った。
 三日、閉会式と賞品授与式があり、晩成社に三等賞が授与された。また、勝は帰路、
方々を巡視し、八日生花苗に着いた。そして、品評会で勉三出品の藍が二等賞を得たこ
とを報告した。
 二十六日、親長夫妻は帰京のため帯広を発った。
 これより先、手紙でリクはナオに説得され、伊豆で静養する決意をしていた。そのた
めリクも生花苗を発ち、大津で合流しようと出張所に滞在した。
 そんな二十七日、出張所留守居役Tが首吊り自殺した。
 勉三は生花苗にいたが、この報を受けて夜、大津に駆けつけると、既にTは棺の中に
納められ、僧侶の読経が行われていた。Tの身元保証人や知人が数名と親長夫妻が焼香
した。だが、気掛かりなリクの姿がなく、一同が帰ったころに現れた。惨場を見たショ
ックがきつかった様子であった。
 勉三は、十二月五日まで大津にいて、Tの葬儀や遺物調査、死後の始末をした。
 六日、勉三は一旦生花苗に戻り、大津へ船が寄港するのを待った。ようやく十日、そ
の報を受け、リクの見送りと社用のため大津へ着いた。
 十二日午後、リク、親長夫妻らは「函館丸」に乗船したが、夜になってリクだけ気分
が悪いと戻って来た。船は混雑を極め、長時間甲板にいたため寒風が原因だと、あえぐ
呼吸の中で言った。
 なおこの日、雇い人の妻が病気で、大津の病院へ向かう途中に死んだ。これを夫と他
のひとりが現場で遺体を無断で焼く事件を起こした。なお後日、無届けのため、自首す
るのだった。
 翌日、まだ船は沖にいたので、小康状態となったリクに、勉三は乗船するよう説得し
た。だが、泣くばかりで聞きなかった。実はこの帰国のため、ある人物から金を借りて
いた。もし、リクが帰らなければ嘘となり、切符を買っている関係から返済の見通しが
立たない。また、彼女への腹立ちと見せしめのため上京して、佐二平から旅費を工面す
ることにした。
 朝、勉三は乗船したが、風波とも激しく船は横転しそうになった。彼は甲板にいて、
吐いた。
 十五日朝、勉三は函館に着いて一泊した。翌十六日、勉三と親長夫妻は「山城丸」に
乗り、十八日未明、横浜に上陸した。ここで親長らと別れ、午後四時の汽車で東京へ着
き、衆議院宿舎に佐二平を訪ねて旅費を頼み、二十日東京発、横浜から函館行きの汽船
「和歌浦丸」に乗り、二十三日函館に着いた。また、以後滞在して大津行きの便船を待
った。だが、やがて感冒にかかり、軽い脳充血も患い、大いに苦しんだ。このため一月
五日まで函館にいて療養した。

 なお、二十三年五月、
       農  況  概  況
「一、帯広村晩成社は単純農業を主とす。初め社員十余戸移住せしも爾来散じて今六戸
なり。麦類は一反歩収穫四、五俵、薯五、六十俵、粟七俵、豆三、四俵の収穫ありたれ
ども近来漸々地力衰え、右収穫より二、三割ないし四、五割の減額となれり。養豚する
もの三戸あり、合せて百余頭ならん。農作して僅かに衣食し、その日の苟苴するのみ。
故に産物と言うべきものなし。
 当社は牧畜をなす計画なりしも、社中規約の行われざる事もあり、故に当縁村(生花
苗)に牧畜して当村はしばらく社員各自の農業に任せたり。しかれども当縁牧場もよう
やく緒につきたれば、明年より当村に農産物製造の見込みを以て間もなく開業して更に
耕夫を募る見込みなり。
 社員六戸、移住以来死者なし、生児五人。耕地およそ二十町歩、馬およそ二十頭、農
具はプラオ、ハーロー等なり」
 と、勉三らしからぬ弱気な書面を当局に提出している。
 また、この年、勝が帯広において屠畜場を開いた。

 明治二十四年と暦が改まっても、勉三の体調は思わしくなかった。リクのことを思っ
ても、函館に止まるよりほかなかった。
 あの時は、親長夫妻の手前上、帰郷を拒むリクへの腹いせもあり、衝動的に東京へ出
向いたのであった。旅費云々はあったにせよ、貸主に詫びればよかったはずである。彼
女は弱い体で寂しい正月を迎えたかと思うと、彼はたまらなかった。また、この己の病
気も自業自得に思われた。
 一月五日、勉三は函館より船に乗るが、海は荒れ、六日夜、広尾に上陸し一泊した。
翌日、馬を雇って日方川まで行って泊まり、八日ようやく生花苗に帰った。心配してい
たリクは、比較的元気に勉三を迎え入れた。
 二十日、勉三は湧洞にも牧場を作ろうと、願書の構想を練った。この日、本年初めて
の牡牛が生まれた。
 二月十四日より勉三は、大津に滞在して麻売りをた。夜は勝や宮崎濁卑らに会い、二
番鶏が鳴くまで語り合った。そして十六日、亜麻作同盟を結成、製線器借用願いを道庁
へ提出した。勉三にとって晩成社以外と協定を結べたことは喜びであった。また、北海
道議会設置が近いことを知り、佐二平あて「北海道に進展が近い」と、手紙にした。
 三月二十六日、勉三は生花苗牧場の山へ、牛の母子十六頭を放った。牛舎に残るのは
四頭で、一頭は子連れ、三頭は分娩近いものであった。
 翌日午前、勉三は架橋工事を監督し、山羊の牧柵を作ろうとした。その時、アイヌの
ひとりが「牛が雪の中に倒れている」と知らせて来た。共に行くと、昨年暮れ病気
になった牛であった。それより当縁川の工事個所をみようと山を越えたが、途中日暮れ
て野宿した。持ち合わせの鍋もなく、鞄の中の米粒と、干した鮭肉を噛んだ。やや眠る
と、午前二時より霧雨となって眠っていられず、三時半に出発した。だが、道に迷って
一周、およそ一里半を歩いて同じ場所に戻った。やがて夜明けとなり再び出発、昨日來
の疲れと、粗食の空腹から、疲労困憊となった。それでも工事現場に着き、人夫小屋で
粥をご馳走になり、一睡して鋭気を養い、昼食は大工小屋でとって夕刻帰宅した。
 四月十四日、勉三は朝から雇い人数名を連れ、旅人沢に倒れている二十四号牛を見に
行った。まず、子牛を見るとが無残にも食いちぎられ、その先五十メートルの所に二十
四号が足を空に向けていた。熊と闘ったのだろう、地面はへこみ、血潮が一面を染めて
いた。熊はそこから食べ残りを引きずり、半ば土中に埋め込んでいた。せっかくここま
で育ったにと思うと、勉三の目から涙が落ちた。
 残った肉に毒を仕掛け、翌朝、熊が食べたかと勉三らは見にいったが、のぞき見た気
配すらなかった。そして、アイヌの人を頼み、熊を追わせた。
 二十九日、銃太郎が生花苗に顔を見せ、牧場内を見回した。勉三はその視線を強く感
じ、実験農場が遅々としていることに、後ろめたさを覚えた。
 なお、リクは銃太郎に元気そうにして見せた。翌日、勉三は忠兵衛と銃太郎を伴って
大津へ出た。そして、郵便為替を受け取って縄を買い、銃太郎に持たせ帯広に帰した。
また、病院へ忠兵衛に付き添って診察を受けさせた。
 五月五日、勉三は一月提出の生花苗牧場土地貸下願いが却下されたので、付箋個所を
訂正、再提出の準備をした。
 六月二十六日、勉三はホリカヤニ沼方面の牛を見回った。その時、雇い人が「路傍で
子牛が生まれ、病気らしい」と知らせて来た。勉三らはそれを探しに出掛けたが、発見
出来ず、元気な証拠と思うことにした。また、六十二号の子牛も探したが、やがて暗夜
となって見ることが出来なかった。そして、湧洞に夜十一時にたどり着き、そこに泊ま
った。
 翌日、湧洞からオイカマナイ沼尻を歩くと、そこに子牛が死んでいた。勉三はこれを
人夫に背負わせて自宅へ運ばせ、これを割いて住人らに分け、病人の見舞いにした。
 七月十日、馬追いが勉三に「牛がバッタの駆除堀に落ち、死んでいる」と報告した。
勉三は急いで支度をし、五名が馬五頭で山道をホリカヤニ沼へと出た。途中、二歳牛の
白骨に出合い、それは二カ月前、熊に襲われたものと推定された。そして牧場へ戻り、
二十一号牛を屠殺して雨中を馬で運ばせた。
 十五日、道庁測量師二名が生花苗に来た。勉三は、開拓記念日であることから餅をつ
き、測量師や家人らに振る舞った。翌日も祭日とし、雇い人や村人らが訪れた。リクは
休日の勉三の顔に余裕を感じ、自分の健康を取り戻した感じがした。
 二十日、大津より競馬場開設の募金に来たので、勉三は四円を寄付した。なお、どん
な困ったときでも、彼は必要と思えば寄付を惜しまなかった。
 八月十一日、勉三は大津へ行き、米などを買って馬で運ばせ、自身は三十枚のガラス
を背負い、夜になって生花苗へ帰った。
 三十一日、明治二十一年十一月、札幌県庁より借り入れた種牛が生花苗牧場において
病死した。
 九月二日、勉三は、
      ハイグレード種牛の病状
「本年四、五月放牧、前後健全にして異状なし。同八月一日少しく脱肉の兆あり。また
咳嗽の模様なり。爾後漸々憔悴し気宇倦怠して咳嗽加わる。常に他の牛群に離れ単独に
して清涼無草の砂上に起臥す。同十七日吐血す。同三十一日斃死す。割いて腹部を視る
に、肺部に小豆大の膿結数点あり。またその膿の付着する臓部に鳩卵大の結膿あり。こ
の部分は腐蝕するところあり。胆は泡状なる空嚢のみにして胆汁なし」
 と、書いて提出した。
 そして十一月、新たな種牛拝借願いを提出した。
 九月七日、勉三は会計をし、壁塗りの手助けをした。その時、熊を捕らえるための毒
矢の仕掛けが、人間に害を与えそうなどで止めさせた。
 十七日、生花苗牧場に馬ほど大きな熊が出現し、二歳馬を襲った。雇い人らがアイラ
ンケの先導で、熊探しに出掛けた。やや行き馬の倒れているところまで来ると、熊がい
た。アイランケは恐れをなして逃げ帰った。
 そして、勉三に、
「キリッポーを呼んでください。私たちの手におえない大熊です」
 と、腰を抜かしたように訴えた。
 勉三はそれを聞き、己が直ちに現場に駆けつけ手柄をたてたかった。だが、手元には
適当な刃物も、鉄砲の持ち合わせもなかった。やむを得ず、日方川にキリッポーを迎え
にやることにし、即刻、来るようにと馬を捕らえ「これに乗って来るように」と、やっ
た。しかし、その日、キリッポーは現れなかった。
 その間、現場にいた者は、熊に二発の鉄砲を放った。その一発は僅か急所をはずして
当たったが、熊は血を草原に撒き散らし、どこかへ逃げ込んだという。また、加勢組は
午後になって駆けつけた。先発組は湧洞小屋付近で熊に追いついたが、捕らえられなか
った。なお、勉三ら四名は遅れて行ったが、姿を見ることも出来ず空しく戻った。
 十月二日、勉三は生花苗の畑で燕麦の刈り取り監督をした。天候も比較的順調なこと
から、作柄もよく、働く者たちに笑顔が戻った。
 七日、勉三は北海道庁長官渡辺千秋が、各地を巡視しているという噂を聞いた。こん
な時の彼の動きは軽く、ただちに生花苗を発って大津へ向かった。だが、長官の来訪は
大津へは中旬あたりということで一旦、帰宅した。
 十七日、勉三は長官を出迎えようと、再び大津へ行った。夜、宿で長官に挨拶し、予
定を聞いた。また、翌朝も早朝に起き、長官宿舎で吏員に願書類を手渡した。そして、
宿に戻って朝食をとった。
 それより馬に乗って帰宅、再び野火予防願書下書きを持って湧洞へ行き、長官を迎え
た。野火予防願書を植民課長に渡し、一行の帰路を日方川まで見送った。その途中、昼
食を共にとり、午後二時半、長官らは広尾へ向かい、勉三は日暮れて帰った。
 二十一日午後、勉三は湧洞の馬を山奥まで追って帰った。そこに十勝に移民して開墾
を志す日蓮宗の僧侶など三名がいた。募集をかけなくても向こう側から来る人間に出会
えることは、うれしいことであった。そして、帯広の説明をくわしくした。思えば入地
以来十年近い歳月が流れていることを改めて知った。
 翌日、勉三は彼らを連れて大津まで行き、夜になって生花苗に帰った。すると勝がい
て、リクが笑顔で接待していた。また、翌日も勝は滞在、帯広のことについて勉三と相
談した。
 のち道庁長官へ提出するもので、相談内容は、

土地貸下げ願いに付け副願
「当十勝国晩成社は別紙規則書の通り明治十五年創設し、同十六年河西郡帯広村へ開墾
着手仕り候、以来引き続き年々移民いたすべきところ、同年ならびに十七年は蝗害にあ
い、十八年は霖雨のため共に作物収穫これなく、その後麦、粟、薯は十分の収穫これあ
り候得共、その他販売に適する産物これなき故に新規移民を中止し、従来の移民のみに
て九年間開墾いたし、あるいは当縁村(生花苗)に於て牧牛いたし候処、その年来の辛
苦経験により同所至適の大豆種を発見し、また何分か地温の転換を来せしか、近年は同
種の収穫誤らずまた小豆も幾分の収穫これあり、また牧牛は百四十頭に及び繁殖佳良に
して夏期の肥満はあたかも豚の如し。よって明年より当社の規則を継続しその目的たる
農牧の業を興起してさらに移民を募り、移民は麦粟を食し、豆を売り他の需要に当て、
冬季は牛を飼いその利潤を得て永住いたすべく目途相立て候につき、これからは従来御
貸下相成り候十三万坪も墾成いたし余地これなく、以て今般別紙本願の五十万坪を願下
げ、同起業方法の如く成功いたしべく候間、この段御許可相成りたく副えて願上げ奉り
候也」。
 この起業方法は、五十万坪を七年間で開墾、耕地とするもので、年間二十三町歩の割
合で拓こうとした。
 なお、山本金蔵が札幌農芸伝習所に明治二十年入学、その時、札幌より送った数粒の
大豆の種が、このように自信を生ませたのだ。

 十一月三日、勉三は雇い人とアイランケを連れて山へ行き、怪我牛を屠殺しようとし
た。現場には午前十時半に着くが、そこに発見出来なかった。辺りを手分けして探し、
ようやく見つけ出し、午後三時になって屠殺にかかった。山中であり、不慣れなため時
間がかかり、ついには野宿をしなければならなかった。翌朝も継続作業をしてから帰宅
した。そして、午後三時、小市と共に牛肉を馬に積み広尾へ向かった。この牛の胸部と
後足二本を売却し、前足二本を小市の骨折り料とした。また、残部を進物とした。
 五日、勉三と小市は役場へ行き「売肉営業願い」を提出した。翌日も広尾に滞在し、
牧場願書を書いて提出した。そして、午後五時に発って豊似に泊まり、七日はモンベツ
の馬主や日方川漁場に挨拶してから午後四時、生花苗に帰った。
 十五日、勉三は帯広地所願書を自宅で書き、二十六日より翌月三日までは、雇い人鈴
木、忠兵衛らと生花苗を測量、製図をし、測量器を作った。
 二十九日、勉三は夜の明けやらぬころ自宅を出て大津へ行き、漁業者から本年漁場料
百七十円を受け取った。先年貸付金未収となったことから、漁業権移譲を受けていたた
めであった。
 十二月一日、勉三は小雪の中、大津に来ていた宮崎濁卑と、沼や山麓を巡視してから
生花苗へ帰った。そして翌日、濁卑に牛五頭を貸し渡す約定書を作って渡した。また、
アイランケの会計に夜中一時までかかった。
 五日未明、犬が異常な鳴き声を上げるので家人が起きると、小屋に蓄えた鮭を狐が狙
っていた。ややして勉三が見ると、既に狐は棒で殴られ死んでいた。この日、大津より
米六俵、縄、草鞋などが来た。
 十四日、勉三は帯広へ久方に訪れようとした。大豆が安定作物になったことから、一
同を来年に向け激励するつもりであった。いよいよ晩成社の時代が到来したのだ。まさ
に苦節九年、未来が開かれる思いであった。
 だが、雪は深く、帯広まで行けそうないと、家人に止められた。そこで勉三は、当縁
川上流まで歩き、そこを起点として付近を踏査した。
 翌日、勉三は大津へ着き、郵便局で為替を受け取って預金し、本願寺で佐藤米吉のた
め読経してもらった。
 二十二日、勉三は帯広地所願いに大津役場へ行き、翌日生花苗へ帰った。そして、二
十四、五日と帯広土地願書ならびに財産調べをした。
 三十日、勉三は体調を崩して寝込んだ。体を休めることを知らない彼は、この年末に
来てどっと疲れが出てしまったのだ。家人らは餅をつき、雇い人に餅、鮭など歳暮とし
て贈った。その夜、愛犬「福」が一声吠えた。勉三は家人が騒ぐので起きて見ると、口
から血を流していた。その苦しみ方から、狐を殺す仕掛の毒肉が原因だと断定した。懸
命に薬を口に含ませるが、効果はなかった。そして、勉三は怒ってアイヌ少年ふたりに
「明日はここを出て行け」と、雇用を解いた。
 三十一日、午前風、午後は風雨が強まった。勉三は年の締めくくりとして、どうして
も起きようとしたが、ついに出来なかった。その代わり、リクが生き生きと働き、午前
は餅きり、午後は料理に精を出した。勉三は一年前、伊豆へ彼女を返していたら、どん
な年末、どんな正月になっていたろうと思った。