第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目


   第12章 第十年目(40歳〜41歳)

 明治二十五年元旦は、晴れて暖かった。勉三はやや体調を取り戻し、綿入れを着込ん
で礼膳についた。今年は、大豆が安定作物になったことから、寝て正月を迎えられない
心境であった。盃を二、三杯傾け、家人らから年始の挨拶を受けた。
 リクはやさしく、
「無理をなさらないで、私が何でもやりますから、休んでいらっしゃって……」
 と、言った。
 勉三は、今年が重要な前進年になると確信し、素直に言葉に従うことにした。
 床につくと、これまでのことが思い出され、自ら「よくぞ耐えたり」と、褒めてやり
たい気がした。確かに己の性格は理想に走り過ぎるように思う。そのため幾つもの不幸
を生んだことを認めなければならなかった。広大な十勝平原の奥まった帯広を選んだこ
とは失敗中の失敗であった。道があればまだしも、消費地に遠い奥地では経済的不向き
なことに気づくべきであったろう。
 ケプロンの言葉に奮い立ち、田内、内田の文字に躍らせて十勝を選んだ。これは間違
いでなかったにしても、「二百余戸、天草民移住」という話が、一番乗りの好きな 己を
狂わせたといえる。国家が逸早くバックアップするだろうの誤算が、今までの苦難にな
ったと言えよう。となれば、九年間だけ早すぎたのか。
 だがと、勉三は考える。はたして命賭けてのこの九年は、全く無駄であったろうか。
石の上にも三年ならぬ九年が、無駄になろうはずはない。草分けとはこれくらいの苦難
はつきまとうものなのだ。これくらいの苦難で済んだと思えば、幸運だと言えなくはな
い。逃げ出すのでなく、前進するエネルギーがまだ存在していることは、幸福でなくて
何であろう。大豆という安定作物が出来「十勝へ、十勝へ」の足音が聞こえるではない
か。ようやく国家も肥沃な大地に気づき、重い腰を上げようとしているのだ。
 勉三は、外に飛び出し、大声で、
「儂の行動は、間違ってはいない」
 と、叫びたい衝動にかられた。
 そして、リクが介抱してくれ、その母性愛に彼女自身が生き生きしていることを思え
ば、布団の中にいて体調を回復することが、第一義と考えた。
 この年を先取りすれば、
 一月、官公署出先機関である測候所が、帯広晩成社敷地内に開設、同時に農作物試作
場となる。六月、道庁が帯広を基点に農地植民計画を施行し、九百間四方を大区画、三
百間ごとを中区画、それを六等分し百間×百五十間を小区画とし、小区画五町歩(五ヘ
クタール)が通常移民一戸分となる。十月、集治監釧路分監という名の刑務所が建てら
れる。百人収容のバラック建だが、やがて二十八年に千三百人収容、職員二百六十七人
の十勝分監となる。その土地の選定に大井上典獄や晩成社の勉三、勝、山田彦太郎らが
あたる。この開設により御用商人がどっと押し寄せ、囚人らは道路開削、開墾に従事し
て明治末期までに四百五十町歩を拓かれ、各種産業基盤が作られて都市化する。言葉は
悪いが、帯広は監獄城下町と言えなくはない。十一月、郵便局が開設される。以前は一
枚の葉書を出すにも大津まで足を運び、伊豆からの郵便は早くて一カ月、遅いものは三
カ月かかった。ただし当初、電信は扱われなかった。ちなみに電話は大正七年帯広〜上
帯広、九年に帯広〜札幌間が開通する。そして十二月、駅遞所が出来のである。なお、
鉄道の開通は明治四十年である。
 勉三の心には、公と私、理想と現実、未来と現在、楽観と悲観が、短い周期となって
去来する。二宮尊徳の報徳訓にいう「来年の衣食は今年の艱難にあり、年々歳々報徳を
忘れべからず」の語句が後支えとなる。

 一月十四日、勉三は十分静養をとり、体調が戻ったことから家人らと日方川のアイヌ
集落へ行き、熊送りを見た。どの民族といわず歴史ある祭りは、どこかに哀愁が漂うも
のだと思った。
 二十日夜半、勉三所有の山羊が二頭の子を産んだので、そっとリクに気づかれないよ
うに起き、山羊の子を炉辺に抱いて朝を迎えた。そして六時、家人らが起床したので、
これを任せて寝た。また、九時半に起き、山羊小屋を午後二時までかかって建てた。そ
れより薪出し、家人に薪割りをさせた。
 二十九日夜、勉三は父の忌日前日に当たることから、飯や素麺を自ら作り、仏前に供
え、家人らに振る舞った。また、この日から二月上旬まで当縁村を測量、製図をした。
 二月八日、勉三は生花苗を発って帯広へ向かった。その晩は大津に泊まり、止若に一
泊、十日昼過ぎ帯広に着いた。ただちに村中を巡回、伏古村まで行って渡辺宅に泊まっ
た。
 勝の家は子供があり、貧しさはどこと変わらないが、どこか柔和な緊張感があった。
しかも勝の蛮カラは相変わらずで、アイヌ仲間と酒を飲んだくれ、家庭を顧みる人物で
なかった。一方カネは農事、家事、子供の養育をしているのに、少しもくたびれた様子
を見せなかった。そして、片手間に鶏を飼って卵を売り、のちに子供の教育費に当てる
のだった。これほどまでに耐えられるカネが、勉三にとって不思議で、その物腰に十字
架の後光を感じた。
 十一日、勉三は勝の家に社員を集め、個々に晩成社との貸借関係書類を提出させた。
大豆が安定作物をなった以上、しっかり会計し、晩成社再起の年にしたかった。甘い顔
をし続けたら、晩成社も社員も総崩れになるように思えた。
 十二日、勉三と勝は、肩を組むように帯広を発った。伊豆を出たのは明治十六年、あ
の沸き立つような気持ちであった。九年の苦難を忘れ、新たな希望が雪の輝きと共にあ
った。
 勝に十年ぶりの名古屋への帰省が褒美のように許された。それと同時に晩成社再起の
ため、株主に増資をうながす使命が与えられた。それにより移民募集の大義が浸透する
気がした。道々それを話し、翌日、生花苗に着いた。
 十三日、勉三は帯広の将来図を書面にして勝に渡した。これを見れば伊豆の株主も必
ず納得するであろう自信作であった。それには己より勝の方が説得力があると信じての
派遣であった。勝はこれを携え、十五日、内地へ向かった。
 四月十三日、帰省を終えた勝は、帯広に戻る前に生花苗へ寄った。結果は伊豆の株主
たち、農民に熱心に説いたが、出金も、移民も応じる者がなかった。ただ佐二平と善六
が個人として賛成してくれ、勉三に一任するので本事業推進せよとの添書があった。
 勉三は、株主にそっぽを向かれたことは、残念でならなかった。でも、他の株主の心
理を察すれば、地代徴収も一年だけだし、己の信用の証明とも受け取れた。十勝農業を
着実なものにすれば、必ず株主はついて来るのだ。自分を磨く大きなチャンスであり、
新たな闘志が沸き上がった。
 二十八日、勉三と鈴木由郎(峰輪)は、大工菊松とアイヌひとりと、帯広地所測定の
ため生花苗を発った。川をさかのぼり、山を越え、粗末な小屋に泊まり、川を渡り、翌
日午後二時、帯広へ着いた。社員山田勘五郎宅を借り、早速担って来た測量縄の点検、
測量器を広げた。そして、三十日より五月三日まで帯広に滞在して測量、製図をした。
また、勝を交えウレガレップ辺を見て新願地を定め、概測した。
 五月四日朝、勉三らは帯広を発って帰路についた。だが、札内川の水嵩は増して渡る
ことが出来ず、勝の家まで戻って舟を雇い、札内に上陸した。そして、止若を経由して
牛首別の小屋に泊まり、五日夜、生花苗に帰った。
 九日、勉三は帳簿つけをしようとするが、そこへ「三十一号牛が沼地へ落ちた」とい
う報を受けた。直ぐさま現地へ走って助け、午後三時に帰れば役人が待っていた。これ
に応対していると、今度は「湿地で母牛が死に、傍らで子牛が泣き叫んでいる」と告げ
られた。これを機に役人が帰れば、僧侶と知人が来て泊まった。
 十日、僧侶は佐藤米吉三回忌の読経をした。この僧侶を勉三は湧洞まで見送り、帰宅
して「牛祝い」をした。これは昨年だけで子牛四十七頭が生まれ、それも母牛の八割が
分娩したことを祝うものであった。この日は休業で、来客もあり夜九時まで酒が振る舞
われた。
 気候がようやく春めく中、リクは健康を取り戻していた。そして、法事と牛祝いの料
理に精を出し、十八日にはイヌイ山で桜の花を観賞した。勉三にとって彼女の笑顔は誰
にでも誇れる宝であった。
 それにより何時にも増して勉三の力はみなぎり、道を作り、ため池を掘り、牛を見回
り、畑に種を蒔いた。また、月末に十勝郡長や釧路警察署長など生花苗を巡視したのに
応接した。リクは料理、家人は芹採り、掃除、給仕、郡長の馬を洗って手入れをした。
そして夕刻、湧洞へ夜具を借りにやらせ、酒で歓待した。
 勉三にとって役人に媚びるのは快くなかったが、新開拓地にあっては公のバックアッ
プは絶対不可欠なもので、三十日歴舟、三十一日広尾を案内した。
 この日、高橋静次郎が満二ケ年余の札幌、七重で牧畜修業を終え、生花苗に戻った。
 六月三日、勉三は自宅にいて道庁山林課に提出する木苗願書の作成、昼食後はチャダ
イに木苗取りをさせた。
 六日、昼ごろ雨となり、雇い人が来て「新しい熊の足跡を発見した」と報告した。そ
れにより鶏一羽が犠牲となった。牧場にとって熊の出現は大きな脅威で、翌日、チャダ
イを呼び、熊を追わせが熊に出会えなかった。他者は熊害に遭った四十三号牛を連れて
戻った。左肩に長さ二十五センチ、深さ三センチの傷を負っていた。
 十一日、勉三は帯広地所の製図をし、山林員などに会った。また、雇い人が「二十六
号牛が海浜近くで死んでいる」と報告を受けたが、熊に襲われたものであった。なお、
先の四十三号牛の傷の手当は、他の牧場の者を呼んでした。
 十二日、雨の降る中、勉三は帯広に着き、夜、道庁植民課の内田、柳本に会った。そ
して、晩成社の由来、開墾地境について話し合った。翌日、勉三は帯広にいて新墾地を
視察したが、内田らは広尾へ向かった。
 十四日、勉三は朝九時に帯広を発ち、途中雨にあい、夕刻生花苗に帰った。この時、
トド松の苗三千本を馬で運ばせた。
 二十四日、勉三は茂寄役場へ行き、帯広共同墓地のため社有地三千坪寄付願いと、種
牛拝借願いを提出した。また、郵便局で為替百円を受け取ったが、これは佐二平と善六
が、帯広新事業費としてのものであった。
 二十八日午後七時、鳥取県人、広瀬老人が生花苗を訪れた。北海道実業家伝記編纂の
ためであった。勉三は、これに気負わず開拓の経緯を話した。
 七月五日、今度は根室の写真家が来るというので、雇い人を大津まで迎えにやった。
そして夕刻、米と共に写真家を馬に乗せて来た。翌日は気温三十二度の炎熱中、勉三や
家人は写真を撮るため奔走した。チャダイらは牛追い、他の者は写し場所を整え、牛馬
をほどよく配置して写真を撮らせた。この日、湧洞の知人佐藤嘉兵衛は妻子連れで来て
写真に収まった。
 十八日、勉三は帯広で内田、柳本と会い、開墾地境確定のため出発した。途中、リク
を手助けする女性を頼み、二十日昼帯広へ着いた。直ちに内田らに面会、境界のことを
頼んだ。
 二十一日、勉三は社員一同を集め、新耕夫約定書を作って記名、捺印させ、また旧耕
夫には貸金念書をとった。そして、使いを渋更へやり、銃太郎、高橋利八にも念書をと
るよう命じた。
 翌日午後、勉三と勝は帯広地所および道路測量杭を見て回った。また、二十三日、測
量師今村、内田、柳本にも会って、晩成社開墾地の区画を内定した。
 勉三は生花苗への帰路、家事手伝いの女性を頼もうとするが、応ずる者はなかった。
そして、止若、二十六日、大津に着いた。
 二十七日、午前中暴風雨のため勉三は宿にいて「報徳記」に句点をつけた。午後は小
降りとなって湧洞へ寄り、夜になって生花苗に着いた。
 八月七日、夜になって雨は強く降った。翌日、生花苗付近の川は水嵩を増し、橋下一
メートルを残すまでになった。大きな流木が橋脚にかかり、今にも橋は流れ出しそうに
なった。勉三は時々外へ出て木を綱でつなぎ、アイヌの人に命じて橋脚にかかる流木を
はずさせ、ようやく橋を守ることが出来た。
 十一日、勉三は広尾戸長が大津より戻ると聞いて、湧洞で待ち伏せようとした。湧洞
で待つ間、茂寄役場からの行政分離願いを書き、戸長に会って意見を述べて、その進達
を頼んだ。そして、大津で村人に茂寄から分離する有利性を説いた。
 十四日、勉三は大津を発って湧洞泊、十五日豊似泊、十六日広尾を経て茂寄役場に分
離願書を提出し、生花苗願人総代として共同墓地請願書を出した。これは官有地原野二
百坪で、生花苗には本籍、寄留者合わせて十一戸となり、これから移住見込みがある旨
を書き添えた。
 この時、勝が札幌の農事諮問会に出向くのに会った。帯広の責任者としてよく働いて
くれる勝の背中に、勉三は手を合わせたい気持ちを抱いた。
 十八日、勉三は再び大津役場に帯広地所願いの奥書を頼みた、その足で釧路へ行き、
農事家中戸川宅に泊まった。翌日、郡役所で茂寄との分離願いと、帯広地所願書を提出
した。翌日も郡役所へ出て用事を済ませ、直ちに函館へ向かおうとしたが、便船がなく
中戸川宅に滞在した。
 二十四日朝、知人が来て「函館行きの船が来た」との報を受けた。勉三は直ちに旅支
度して午前十一時に乗船した。久ぶりの波静かな航海で、二十四日午後三時に函館に着
いた。そして、例の漁業者などと用談、二十七日までいた。
 二十七日夜六時に乗船、一夜走って朝六時室蘭に入港した。宿で入浴、朝食をとり、
馬車で停車場へ行き、午前八時過ぎの汽車に乗り、早くも午後三時に札幌へ着くのだっ
た。ようやく文明の力、汽車が、北海道に通じたことは、大きな喜びで、苦しい晩成社
経営に光明が射す思いであった。
 札幌南一条西五丁目の荻野宅に、渡辺勝と山本金蔵がいた。金蔵はすっかり頼もしく
農芸伝習所の勉強が自信となって輝いていた。勉三は十勝農業の旗手となってくれると
確信した。そして夜、一同は劇場へ行き芝居を楽しんだ。
 二十九日朝、勉三は郡長の宿舎「山形屋」を訪ね、共に道庁へ行き種牛のこと、帯広
地所のこと、茂寄との分離など陳情した。そして、宿に帰って昼食後、共進会を見学し
た。各地から出品されたものが並び、北海道が肥沃な大地であることを証明していた。
勉三には大きな希望、養子となった毅太郎が修業中の農場を訪れた。その頼もしい姿に
接し、勉三の心中は、一気に明るくなった。
 三十日、勉三と勝は、共に二、三の農場を視察して宿に戻った。また翌日も、道庁へ
足を運んで陳情し、製麻会社など見学した。
 九月一日、勝と金蔵は帯広へ向かい、勉三はひとり残って道庁と最後の詰めをした。
度々訪れることの出来ない土地であり、執拗に役人を追い詰めた。それでも役人は上役
が留守だとか、前例がないとか、交わし上手であった。
 二日、勉三は札幌より汽車に乗って苫小牧で降り、昼食をとってから三里歩いて勇払
に泊まった。翌日は雨となり、その中を乗馬や歩行して下々方村まで行った。夕刻にな
ると寒風が肌を刺し、ついに感冒にかかってしまった。
 四日、勉三は気分がすぐれなかったが、乗馬して三石でおり、荷物を馬丁に託して浦
河まで先発させ、しばらく後を歩いて浦河に泊まった。
 五日、歩こうとするが暴雨となり、感冒もあって、終日浦河ですごした。そして「迸
息(ほうそく)発汗法」という、息を強く吐き、汗を出すという感冒の治療をした。
 六日、細雨が降る中、浦河を出て様似で昼食、馬を代えて幌泉まで行った。また、馬
上で迸息発汗療法を繰り返し、翌朝、幌泉を出て、襟裳岬近くの庶野まで乗馬した。だ
が、約束の乗り継ぐ馬はなく、行李を背負ってサルルまで歩いた。
 八日、再び乗馬して広尾に達し、役場へ行ったが書記不在、川が増水したことで歴舟
に泊まった。翌日、歴舟に荷物を預けて歩き、午前十一時生花苗に着いた。
 十二日、勉三は帯広の道路開削費御補助願いと土地御給与願いを書いた。なお、この
土地御給与願いの十三万坪余は、入地以来の墾成地面積であった。つまり合計四十三町
歩余で、当初十五年間で一万町歩の目標からすれば及びもつかない数字であった。
 だが、如何に微小でも、この土地は穀物を産む大地となったのだ。勉三にとって誇る
べき土地であった。
 これを書き終え、釧路地理課員塚野を待ったが、現れなかった。勉三は大津までの道
中に会うだろうと判断し、昼食を済ませて生花苗を出た。そして、湧洞まで来ると滋賀
県人田口秀正に出会った。彼は生涯の良友となる人物である。聞けば、自分に会いに生
花苗へ行くのだという、それならばと共に大津へ向かった。
 十三日、勉三は塚野、田口と三頭の馬を並べて帯広に着いた。
 十四日、勉三は勝と内田、柳本を訪れ、晩成社給与地測量を懇願した。また、しばら
くして塚本らが加わり、一同と村人は手分けして地割測量をした。
 十五日、細雨が続いて測量が出来ず、勉三はその空き時間内田らを訪ね、また、夜も
勝の家で、内田と開拓話に花を咲かせた。それぞれ北海道に対する熱いものが語られ、
共に勇気づけられた。
 十六日、午前中細雨で、昼からは晴れて測量が行われた。この夜、勉三は勝と内田を
訪ねて用談した。
 十七日、勉三は塚本に暇ごいのため、勝の家に行った。
 すると勝が、
「内田君らが、われらを接待してご馳走するので、君の発足を止めるようにと言われた
よ」
 と、伝言された。
 そのため勉三は滞在し、勝と内田らを訪ねて饗応を受け、夜になっても話は尽きるこ
とはなかった。
 十八日、勉三は帯広を発って昼過ぎ止若に着き、大西家に寄り、春助をもらい受ける
約束した。この家は生活が苦しく、それを助ける意味もあった。これには第三者が立ち
会って決められた。
 十九日、この朝初霜があり、勉三は白いものを踏んで午後二時大津に着き、宿で手紙
を書き、知人を訪ね、買い物をし、夜は願書の清書をした。
 二十日、勉三は帯広から来た塚野らに会い、役場に帯広願書を提出した。昼過ぎ大津
を発って生花苗に帰った。
 二十一日、勉三は午前、まとまった新聞を読み、午後は会計、簿記をした。また、訪
れた田口秀正に応接すると、彼は己の目で見たことから、帯広は有望な土地であること
を語ってくれた。勉三はこの言葉に、意を強くした。
 二十九日、勉三は帯広地所の製図をし、夜は報徳記を読んだ。そして二宮尊徳の教え
の一つ一つが身にしみ、未熟な自分を悟るのだった。
 三十日、午前製図、午後は大津役場へ願書提出のため生花苗を出た。途中、湧洞で馬
を託され、これを牽いてツープラストウまで行くが川堤が決壊していて二度も溺れそう
になった。
 ややして嘉兵衛に出会うが、この老人は自ら馬を飼い、駅逓所を営む人物であった。
老人に馬を渡し、大津へ着いた。夜は柳本と深夜一時まで長談した。
 十月一日、勉三は役場に柳本を訪れ、帯広地所の件を懇願した。また、三、四名を訪
ね、午後大津を発って生花苗に帰った。
 五日、勉三は生花苗牧場土地払下げ願書を作成した。そして、午後四時より来客予定
のあることから、薯蕷を掘って調理した。リクは最近、体調を崩しがちで、勉三が家に
いるときは自ら台所に立つことが多くなっていた。客とは帯広で歓待してくれた内田瀞
であった。
 もうここまで来た以上、役所の力を借りて一気に帯広の開拓をしなければならない。
そのためにも勉三は、心を込めて料理するのだった。内田は晩に現れ、三晩泊まって八
日朝帰ったが、札幌農学校で学んだことや、道庁の情報など惜しみ無く勉三に与えた。
 十八日、勉三は大津役場へ願書提出のため生花苗を出て湧洞に泊まった。
 翌朝、発とうとすると、嘉兵衛が、
「広尾役場への管轄替え願いは、当分許可を出せないと、申し渡しがあった」
 と、告げた。
 彼の言うには、広尾役場自体が分離願書進達を嫌っているためだという。勉三はこれ
を聞き、大津へ向かわず生花苗に戻った。そして、書類を整え、再び湧洞へ行って昼食
をとり、大津へ着いた。
 そして、戸長石井佐五郎に会い、管轄替え願書を大津役場へ提出した。その夜、勉三
が石井を訪れると、そこいた娘が妙に気に入った。慎重に方々に性格などを確かめ、二
十二日夕刻、その娘美重を養女にもらう約束を取り付けた。これは留守がちの自分に代
わって、弱りがちのリクに付き添ってもらいたい意があった。
 二十三日午前、勉三が大津にいると、大井上典獄が帯広に釧路分監刑務所の敷地を求
めている情報を得た。だが、真偽を各所に尋ねるが分からず、帰宅途中、大井小市に出
会ったので、真偽を確かめるよう頼んだ。夜になって小市が言うには、真実だというこ
とであった。
 二十四日朝、勉三は馬に乗って家を出、大津で糠や釘を買った。それを雇い人の馬に
つけ、昼に大津を出発、夜、帯広の山本初二郎宅に着いた。早速、勝を呼んで種々話し
合った。
 また翌日、勉三と勝は、山田彦太郎宅に行って大井上典獄に会い、晩成社願地と刑務
所敷地のすり合わせをした。また、内田を止若より馬をやって迎え、この協議に加わっ
てもらった。その夜も内田をまじえ勝と共に夜が更けるまで長談した。なお、内田は勝
宅、勉三は初二郎宅に泊まった。
 二十六日、勉三は初二郎宅で朝食をとり、大井上典獄の宿舎を訪ねた。
 大井上典獄は、
「今日、再び帯広原野を見て敷地を決定する」
 と、言った。
 勉三はそれに随行し、勝、彦太郎も従った。典獄側は大井上、八田分監長、小林看守
長(分監付商人)、看守と囚人らで計十一名であった。なお、内田は 止若に帰って参加
しなかった。
 これにより分監建設地は、南四線および五線の間、官舎は西四号より五号の間に決定
した。勉三はここに建物が作られ、ひとが集まれば、必然と帯広は開発されると確信し
た。個人の十年間、苦難の営みと叫びも、公という後ろ盾には適わぬことであった。肩
の力が抜けたようであり、これからが勝負だという気力が湧いた。
 二十七日、勉三は帯広を出て、止若の内田や武山を訪ねた。だが、武山は留守で「昨
日蚕種を持って大津へ行った」と言う。そして、大津の長島に宿をとった。夜は佐五郎
宅へ行き、来月十一日、ここにおいて美重をもらう式を挙げる約束をした。翌朝、大津
を発し、昼食を湧洞でとって生花苗に帰った。また、休む間もなく、午後二時より樹林
を見回り、特殊の用途に使う、曲がり木を探して歩いた。
 三十日、朝より雨となり、勉三は十勝農事試験場に対する意見書を作成した。その日
暮らしの農事者に代わり、公費によって研究を願い、安定作物をさがし出して欲しかっ
た。
 十一月一日、大雨となり、川水が溢れるほどになった。勉三は胸騒ぎを押さえ、晩成
社の記帳をした。ほどなくして「流木が橋脚にかかった」という報告があり、家人らと
流木を払った。
 四日朝、勉三は家を出て大津まで行き、郵便為替を受け取って返金し、大工に工賃を
渡した。そして、日暮れて帰る馬があると聞き、これに乗って湧洞に泊まった。なおこ
の夜、月食があり、飽かずに歩きながら眺めた。
 十日、勉三は午前、種牛拝借願書を書いてから正午に湧洞へ着いた。そして沼を渡ろ
うとするが、風強く舟を出せなかった。しばらく休息し、午後二時沼を渡り、日暮れて
大津に着いた。
 十一日朝、勉三は米四十俵を買い付け、代金を商人から借りて支払った。晩は佐五郎
宅を訪れ、明日、美重を生花苗へ連れて帰りたいと申し入れた。だが、佐五郎は明後日
まで延期して欲しいと言った。勉三は親子の情を察してこの案を呑み、目出度いことで
の揉め事は避けた。よって明夕、ひとを招いて祝宴を開き、明後日、美重を連れて帰る
ことにした。
 なお、同日付で、勉三は緑綬褒章を受章した。これは兄佐二平と同時受章であった。

        日本帝国褒章の記     
                          当縁村 依 田 勉 三
つとに意を稼穡に注ぎ晩成社を設立し、自ら副社長となり伊豆国より族類数十人を率い
て北海道に移住し、地を十勝国河西郡帯広村に卜し、また別に試験場を本村に設け、荊
蕀を刈り溝洫を開き道路を通し橋梁を架し、専ら耕耘牧畜に従事し、資財を消耗し、難
苦を備甞し、ついに耕地四十五町、牧草地七十五万坪、牛馬二百余頭、豚羊八十余頭を
有するに至れり。まことに実業に精励し衆民の模範たりとす。よって明治十四年十二月
七日勅定の緑綬褒章を賜いその善行を表彰す。
   明治二十五年十一月十一日
              賞勳局総裁正三位勳二等侯爵 西 恩 寺 公 望  
 と、いうものであった。
 勉三は内心、苦労が認められてうれしいが、事業半ばこれからが勝負と、特別な祝い
をしなかった。
 十二日、勉三はこの日も米の買い付けをした。冬に向かっての用意であった。ややし
て佐五郎が勉三の宿へ来て、祝宴の段取りが話し合われた。
 その段取りに従って勉三は、晩になって佐五郎宅へ行った。ビール二瓶、お金二十円
を持参したが、十円は親、他は兄弟にと手渡した。なお、佐五郎側は数名の親族が集ま
り、その宴は四時間続けられた。そして夜十一時、勉三は宿に帰った。
 十三日朝、勉三は商人に昨日の米相場を聞き、佐五郎宅で美重と親子の盃を交わし、
再び酒飯となった。正午、ここを辞して宿へ帰った。
 美重は十七歳になる美しい娘であった。彼女は後ろ髪引かれる思いで、涙ぐみながら
家を出た。午後一時半、馬四頭を連れて来た清吉と勉三、美重が三頭の馬に乗り、一頭
には荷物をつけて出発した。既に日暮れて湧洞に達し、沼を渡舟中に馬が暴れ、二頭が
舟に倒れ込み、これを岸に必死になって上げた。以後は美重だけ馬に乗せ、勉三と清吉
は馬を牽いて歩いた。そして、生花苗に着いたのは、夜八時であった。なお、この舟中
事故により馬蹄で舟子は足を痛め、美重は衣服を汚されるショックを受けた。それにつ
けても勉三は、リクに一瞬でも早く美重を引き合わせようとした、己の性急さを反省し
た。
 十六日、勉三は美重とリクが仲睦まじい母子となったことを見定め、伊豆へ向かおう
と生花苗を発った。目的は晩成社十年来の決算を株主総会に報告することであった。行
李二個、筵包二個を馬に積み、勉三は乗馬して大津に着いた。それは馬七頭の行列で、
馬の帰りは米六駄(十二俵)と、西洋馬具二個を駄した。
 大津に着いた勉三は感冒ぎみで気分が悪く、倦怠感を覚えた。横になりたかったが、
帯広の勝に手紙を書き、札幌の毅太郎に為替を送り、その後はほとんど床の中ですごし
た。
 十八日、訪ねて来た巡査に会わず、それでも翌日、気を取り戻し、僧侶や大津を訪れ
た内田らに会った。
 二十日、勉三は読んだ新聞の牛に関する病気記事を切り抜いた。そして、佐五郎を訪
ね、美重が元気なことを報告した。午後三時、艀に乗って沖に出て「渡島丸」に乗り継
いだが、錨を上げたのは翌朝二時であった。
 なお、この日も牧場より馬六頭が来て、米、塩などを生花苗へ運んだ。また、雇い人
らは野菜を馬で大津の街中を売って歩いた。
 二十一日、渡島丸は朝八時ごろ襟裳岬沖に碇泊した。西風が激烈に吹き、岬を回れる
可能性がなかったからだ。翌日も風は強烈を極め、勉三は船酔いしながら耐えるよりほ
かなかった。二十三日、やや風が静まり、午前八時、襟裳を離れて終日走った。
 二十四日、小雨まじりの大風がまた起こり、波は高さを増した。船は未明、進路を誤
って三時間を浪費し、上下動の激しい中、午後三時函館に着いた。勉三は上陸しても船
酔いが続き、内山金兵衛方に宿をとった。翌日は風雪で、勉三の体はまだ揺れがおさま
らなかったが、眼科医に知人を見舞った。
 二十六日、勉三は函館に滞在し、午前八時より森亀、富田両肉店へ行き、牛肉販売に
ついて相談した。生花苗牧場の牛も順調に育つようになり、そろそろ販路を求める段階
となり、牛肉店開業は晩成社経営に不可欠なものになっていた。また、午後は東川町屠
牛場で屠殺するのを見学した。そして、伯父鈴木真一の友人である写真家井田を訪れ、
開店の協力を求めた。
 勉三は函館に知人が多く、十二月一日まで方々を歩いて旧交を温め、商談した。なか
でも宝町「熊の湯」こと森善、鈴木藤兵衛など、大いにかかわる人物に出会った。
 十二月一日夜十時、勉三は青森行きに乗船した。午前二時錨は上げられ、午前十一時
青森に入港した。そして、雲雀牧場を訪れ、職員から畜肉販売の情報を収集した。
 二日夕、勉三は青森より汽車に乗った。そして、懐より手作りの手帳を出し「車中、
月光雪白相宜し、しかれども時々黒雲天をおおうことあり」と、筆を走らせた。また、
各所に下車し、牛の情報、来年度の雇用依頼をした。
 六日夜、勉三は松島停車場に降り、人力車を雇って 松島周辺の観光を楽しんだ。「人
力車は月を載せて松島を走る」と日記に書き、翌日は五大堂、瑞巌寺などに寄り、船で
塩釜まで行った。そして二、三ひとを訪れ、城址、塩釜神社に足を運んだ。
 八日、勉三は仙台で農具製作所、蒸気機関八馬力で操糸釜五十二という製糸場などを
見学した。また、大橋を見、旧城を遠見した。
 九日、勉三は汽車で仙台を発ち、午後七時過ぎ上野駅に着いた。そして駅近くの知人
に鈴木真一の隠居所を聞き、人力車で小石川日向台町へ向かった。
 伯父は、九段の写真館を蓮杖の弟弟子岡本圭三に譲っていた。娘「のぶ」の婿圭三に
二代目鈴木真一を名乗らせ、己は「真」と改名していた。余談だが、水雷爆発の瞬間写
真を撮った「早撮り写真師」といわれた江崎礼二も、松崎町江奈育ちであった。
 勉三が真の門に立つと、夜十時を過ぎていた。既に眠りについていて、戸を叩いて入
れてもらった。そして、気ままに飯櫃の蓋を開けて空であると知ると、蕎麦粉を湯でか
き混ぜ、腹を満たした。他の兄弟はあまり伯父を頼らなかったが、彼は気まま放題に伯
父母に甘えた。
 十一日、勉三は九段において永田に面会し、北海道で働く約束をした。午後は経師屋
へ行き、生花苗牧場絵図の貼付を頼んだ。また、蚕種を塩釜の知人に送り、有隣堂で本
を買い、鉄砲洲の秋田を訪れて金の借用依頼をした。
 十二日、勉三は小石川に滞在し、撮影用のアイヌ靴具、弓を作った。また、夜は白銀
町の銃太郎の弟定次郎を訪れ、十勝のこと、親長の様子などを聞いた。翌日は九段で借
用証文の保証を頼み、それを持って秋田太郎兵衛から金を借りた。そして、九段に戻っ
り、アイヌ姿の写真を撮ってもらった。
 十五日、勉三は越後屋で衣服を注文、その足で築地にワッデルを訪問した。だが、イ
ギリス帰国中で不在であった。そして、九段で祝宴に加わり、翌日は知人を訪ね、千手
院に友人の墓を拝み、帰路は上野陳列所を見た。
 十七日、勉三は早朝に起き、本港町の秋田宅へ行って相談、昼食をご馳走になった。
午前十一時半、共に衆議院を訪れ、江原素六を待った。明治の静岡県では東の江原、西
の金原明善と称される人物である。この江原は政治、教育、殖産事業に精通していた。
勉三は、国家が北海道開拓へ目を向けなければ、折角の民間の熱意が冷めると訴えた。
江原に傍聴券をもらわなかったが、田中鳥雄代議士より受け、議会を傍聴した。だが、
代議士の議論は現実社会と大きな隔たりを感じてならなかった。後日、金原明善とある
縁でかかわりを持つ。
 なおこの時、佐二平は衆議院議員でなかった。この年一月に行われた第二回総選挙で
落選していたのだ。時の総理伊藤博文は、海軍増強案が成立せず、伝家の宝刀を抜いて
の解散に踏み切った。佐二平は国家的観念に乏しい薩長政治に見切りをつけ、再立候補
を断念していた。だが、周囲のたっての要望に屈して担ぎ出され、準備不足のまま落選
したのだ。なお、佐二平は会津応援の演説をし、そのお礼に会津から芝居の一団が伊豆
を訪れたという逸話がある。
 十九日朝、勉三は牛込の江原邸を訪れ、北海道現況報告をした。そして、本郷近辺の
知人二、三を訪ね、鈴木親長にも会った。ふたりは二年ぶりの対面で、親長は自己の老
齢と老妻の要望で十勝を離れたが、著作によって北海道移民増大に尽力していた。勉三
は素直に礼を述べ、晩成社の危機は親長によって何度も救われたことを感謝した。
 親長は、別れ際、
「銃太郎は君に反目しているようだが、心底では君を尊敬している。互いが競いたつこ
とで、十勝の開拓をしてくれ」
 と、手を握るのだった。
 確かに強烈なライバルがあってこそ、今の自分があるのだ。と、勉三は思った。
 勉三が小石川に帰ると、佐二平が東京にいる伝言を受けた。直ちに兄の定宿「泉健」
を訪れたかったが、夜更けのため明日にした。
 翌朝早く、勉三は伯父と連れ立って馬車で佐二平を訪れた。そして共に浅草で書画、
花卉、パノラマを見た。進取の志を持つ者にとって、再生の刺激となるものであった。
特に勉三には、時代が着実に大きく前進していることを思い知らされた。
 二十一日、前夜、佐二平と小石川に泊まった勉三は、共に出て九段坂で別れた。そし
て、義従兄真一に会い、かねて頼んであった書家日下部鳴鶴の墨書を手にした。幅一米
十五、長さ十米の「十勝神社」の神幟の下書きであった。既に明治二十二年、生花苗に
は神社地が設けられ、開拓民の心の拠り所を作ろうとしていた。そのシンボル、神幟の
書を得たことは、喜びそのものであった。なお、帯広には明治十九年に不動堂を建立し
ていた。そして、その神幟の下書きを兄の宿舎に預け、午後一時、衆議院に出向いた。
そして、江原素六に傍聴券もらって議会を傍聴し、退場時すでに夜となっていて、議事
堂内で秋田と落ち合い、銀座で洋食フルコースのご馳走になった。別れて越後屋で注文
服を受け取り、九段に泊まった。
 二十二日、勉三は早朝九段を出て知人を訪ね、銀座玉屋で時計を買った。そして新栄
町の竹沢が飼育する牛を見学、九段に戻って鳴鶴押印の模写をした。これは神幟に使用
するためで、夜は小石川に泊まった。
 二十三日、勉三は小石川を出て牛込まで歩き、二、三ひとに会って午前十一時に戻っ
た。そして、伯父地所の測量をした。彼の測量、製図技術は高度で、北海道では日常的
作業であった。また午後三時、既に来ていた永田と小石川を出て、九段に寄って晩飯を
ご馳走になった。それより有隣堂で本を求め、新橋より汽車で横浜に降りた。依田一族
は横浜にも多く、鈴木威一郎宅を宿にした。
 二十四日、勉三と永田は、函館より届いていた鮭を贈答先別に荷造りをし、それぞれ
手紙を添えた。午前十時、小石川の伯母が横浜までやって来たが、佐二平の伝言を携え
ていた。
 それは、
「生花苗牧場の写真を複製して、幻灯用にするように……」
 と、あった。
 勉三は、直ちに永田を東京へやり、写真用種板を九段、曇硝子薬品を小石川に求めさ
せた。なお、永田は夜九時、横浜に戻った。
 一方、勉三は佐二平後妻の親族外池と長談、夕刻、威三郎宅に戻った。夜は同家妻の
全快祝いと女児誕生祝い、忘年会を兼ねた宴会に加わり、夜十一時に終わった。
 二十五日朝、勉三は永田を先発させ、沼津へ向かわせた。残った勉三は、写真家であ
る威三郎に牧場写真の複製を頼み、外池と共に保土ケ谷の澱粉製造所を見学した。その
帰路、伊勢崎町で軽業を見てから一旦威三郎宅へ戻り、再び外池、威三郎と壮士演説会
へ行った。だが、睡魔に襲われ、夢の中で弁士ががなり立てる声が空しく聞こえるばか
りだった。
 二十六日、勉三は朝六時五十分発の汽車に乗り、国府津で降りた。そこから馬車に乗
り、午前九時、小田原「小伊勢屋」に投宿、主人に来意を話すと、直ちに湯本「福住」
への紹介状を書いてくれた。これを持って湯本へ行くが、主人は不在であった。この先
代福住正兄は、尊徳の弟子で師との座談を「二宮夜話」にまとめた人物であった。
 夜、主人は戻り、勉三が「報徳」について質問すると、主人は報徳結社について詳し
く説明した。
 二十七日、勉三は 湯本に滞在し、「富国捷径」を読んだ。午後、眠気が起こったころ
へ隣室の客から声をかけられた。そして、共に外へ出て滝を見、不動山に登って村里を
眺めた。その昔、尊徳翁が苦労の末に拓いた耕地は、見事な美しい風景となっていた。
隣室の客人の言うには、尊徳の孫尊親は今、福島県石神村で興復社を経営しているとい
う。やがて勉三は、その尊親と十勝開拓を通じて深い関係を持つが、この時それを知る
由もなかった。
 二十八日午前、勉三は福住主人と報徳結社について談話し、昼過ぎ隣客と馬車で国府
津まで行って汽車に乗った。彼は甲州人で御殿場駅で別れた。そして、勉三は佐野で降
り、人力車で大畑の高橋次郎を訪ねた。この地は毅太郎の出身地で、夜はその父や次郎
と、夜半まで話した。
 翌日、毅太郎の生家で昼食のご馳走になり、彼らの開墾地を見た。山腹より山上まで
茶樹が植えられ、杉、松林が緑に輝き、その土地なりに天まで耕そうとする様が強く感
じられた。視野を移せば駿豆の山並みや村里が、掌中に収まって箱庭のように美しかっ
た。背後には日本一の富士山があり、それらに見とれ、月光の中、高橋宅に帰った。
 三十日、勉三は午前十時過ぎ高橋宅を出て、佐野より汽車に乗り沼津で降りた。そし
て、定宿「芹沢」に荷物を預け、夜までひとを訪ねた。
 三十一日、芹沢を午前二時に起き、使用人に送られ、河口の稲荷河岸まで歩いた。待
合所には知人もいて共に松崎丸に乗った。この船は依田一族が経営するものであった。
 まだ明けやらぬころ船は出て、戸田沖で空が白むのだった。それまで他は見えず、エ
ンジン音を聞くだけで、冬の海にしては静かであった。船縁に立つと、小さな各入江に
煙が昇り、人々の暮らす里であることが知れた。午前八時、松崎へ着くと、まず塗り屋
の善六に挨拶し、リクの近況を老母みなに話した。なお、みなは大正十二年九十五歳で
亡くなるほど長命で、リクが美重と楽しく暮らしていると聞いて喜んだ。そこで朝食を
とり、那賀隠居、那賀大屋、南郷イマ女、大沢樋口、同隠居、そして生家へ帰り、初め
て兄嫁、姪らに会った。勉三にとっては明治二十年三月以来の帰省であった。

 なお この年三月、役所に提出した「晩成社沿革誌」は、「現今耕す所十万坪余、風除
地その他二万坪余、耕夫六戸、男女三十余人なり」と、帯広の現況を述べている。
 また、生花苗牧場についての項では、
「明治二十二年、二兄弟、前後して伊豆へ帰り、いくばくもなく死亡す。故を以て勉三
は更に僮生を募り養生して他日に備え、ますます精励して地を拓き、蒭菽を作り牛馬を
養う。この地湿潤にして水悪きが故に、井戸二カ所を掘りたれど恰好ならず、ついに隧
道四十間を掘り川底に達し、穴を鑿ち砂漉して一井を作る。この水夏清く冬凍らず、以
来飲料の便を得たり。また道を作ること一里余、橋を架すこと三カ所延長二十七間、排
水掘を掘ること二カ所延長六百間、家屋十四棟を作る。現今耕地は十一万坪余、牧場七
十万坪なり。家人六人、常役するもの十五人、外に臨時夫を使用す。山羊六頭、牛百三
十頭、馬四十頭にして、本年分娩するもの、牛六十余頭、馬十六頭なり」また「帯広村
は耕耘数年の結果にて 自然地中に温素を吸う力生ぜしか、また 種子自ずから土地に相
応じせしか、年々 諸作物の収穫あり。(中略)当縁村(生花苗)は牧畜未だ利益あらざ
れども逐年利益を生ずる目算は立ちたり」と、ある。

 勉三は、明治二十六年元旦を生地、大沢で迎えた。昨夜来雨となり、「元日が 晴静で
あること」を祈ったが、見事に晴れた朝となった。ひとの心は天気によって左右される
もので、彼にとっても今年を占う意味で快かった。年月を経て見る景色、渓流の音は昔
と少しも変わってはいなかったが、ひとの顔に時の移ろいを強く感じた。
 勉三は、いつもの習慣で早朝四時に起き、転送された手紙を繰り返して読んだ。そし
て、手帳より抜き出して日記帳を清書した。六時、佐二平を囲んで家人と礼席につき雑
煮を食べた。それが終わると佐二平と村中を年始挨拶して回り、村内の神仏を参詣、峰
輪大屋、帰一寺の階段を登り僧侶に、また那賀大屋に寄って準次に会った。彼はリクの
兄で、善六の弟である。牛の飼育にも精を出していた。ここで佐二平と別れ、勉三は山
沿いの道を歩き、江奈の石田房吉を訪ねると、八歳になる礼助の腕白ぶりは格別であっ
た。こんな子供を見ると、すぐ北海道の後継者にと思った。やがてこの少年が国鉄総裁
となって、帯広民衆駅認可を下すのだから奇縁というものである。次に松下通りの近藤
医院、実は正鉄のところへ姉みちは嫁ぐが間もなく亡くなり、広島より来た後妻が赤子
を抱いて現れた。この子は尚二で、田方農業学校二期生となって晩成社にかかわる。そ
して、中瀬の依田直吉(現 明治商家中瀬邸)、土屋老母、塗り屋で母みなに会い、大阪
屋薬店に挨拶をした。なお、ここから文化勲章受章者近藤平三郎が出る。その夜は塗り
屋に泊まった。
 二日未明、勉三は山を越えて岩地へ向かった。北海道の山野を歩き慣れた足は、暗く
ても確かであった。だが、母の生まれ在所「文左」の門前に立つが、就寝中であった。
そのため砂浜に座り、朝雲と空の色が刻々と移ろう様を眺めた。また、浜をなめる波の
音は、母の歌う子守唄であった。こうしていると、何故に北海道開拓という苦難の道を
選んだのか、我ながら不思議に思えた。これも一時の感傷で、やがて文左の戸が開けら
れ、座敷に上がって礼酒、雑煮をご馳走になった。ややしてここを出て、阿波屋に寄っ
て雑談した。
 再び山道を戻り、今度は岩科村金沢・まんどころに着いた。この家には 弟要が婿入り
しており、舅真三郎も勉三のよき理解者であった。また、要の子陽ものち晩成社に関係
する。そして、道部の奈倉に寄り、大沢へ戻ったのは夜八時であった。
 帰ればひと足先に要がいて、佐二平と懇談していた。これに勉三も加わり、朝二時ま
で話しだ。
 勉三は、三日から敷地内別宅に台所、机など整えて自炊し、晩成社の会計、読書をし
た。そして、北海道から手紙が舞い込むと仕事の手配、送金を手際よくやり、時には弟
善吾が来て、十勝の話を興味深く聞くのだった。
 四日、勉三は 佐二平と松崎へ行き、「豆南社」の新年会に臨んだ。そして、会員の求
めに応じ、北海道に関する演説をした。広漠な大地が十年にしてひとの熱を感じ、やが
ては日本の穀倉となる、と結んだ。なお、豆南社は非政結社で、地方の公益を謀り、弊
風矯正、社会改進を目的とした、西伊豆地域の若者が参画する進取な会であった。
 十四日、大沢八幡宮例祭で、勉三は自邸の食膳を囲んだ村人に四時間ほど十勝の開拓
話をした。
 またこのころ、鳴鶴書「十勝神社」の紙幟を反物に染め上げる工夫をした。また、客
人の接待、晩成社会計に忙しかった。そして、佐二平は勉三、息子新四郎らと天城山生
沢の新開地を見せ、勉三に意見を求めた。
 十六日、勉三は年賀状を書き、この日五十六通目を出した。その中に勝、毅太郎、リ
クの名もあった。
 十七日、勉三は生花苗における種牛拝借願書を書き、保証人に善六を頼んだ。また、
昼食後は佐二平と炉辺会話、内容は常に十勝開拓話へ移り、帯広に新たな澱粉工場を作
る予算など相談した。翌日、種牛拝借願いを広尾役場あて投函し、新聞を読み、洗濯、
夕刻より帯広測量図を見て構想を練った。夜は読書、手紙を書いた。
 二十二日、勉三は朝起きると、腹部に痛みを覚えた。何時もは物を腹に納めると治る
のだが、朝食をとっても止まらなかった。そのため昼食をとらず、二回ほど牛胆を飲ん
だ。この日は終日気分悪く、それでも読書をした。以後、数日体調が戻らず、漢詩など
整理した。
 二十四日、勉三は金沢に要を訪れ、松崎の鍛冶屋、そして、塗り屋へ寄って朝食をと
った。また、那賀で準次に会い、彼自慢の牛五頭を見た。近くの家の牛も見たが、伊豆
の牛は何となく人間同様、のんびりしているように思えた。その後、南郷河原のイマ女
を訪れ、大沢の樋口姉の落花生を掘るのを見学、午前十一時半に帰った。午後は漢詩の
清書、夜は佐二平と話し中、善六が来て共に飲んだ。翌日、伊豆に珍しく十センチほど
雪が積もった。
 二十八日、勉三が会計をしていると寒気がし、腰が痛みだした。それでも続け、終え
て部屋の整理、掃除をした。明日、上京の予定であった。
 二十九日、勉三は風邪をひき、終日起きることが出来なかった。この日は雨となり、
上京中止となったこともあった。なお夜、亡父の法要があったが、仏前に手を合わせる
ことも出来ず、翌日も寝込み、永田に諸帳簿下書きの指示した。
 三十一日、勉三は少し気分がよくなったことから、起きて仏教の本を読んだ。さすが
の彼も「今ここで死んだら……」と、死を身近に感じ、無性に恐ろしくなった。仏の教
え、悟りとは何かを探るが、明解な答えを得るには至らなかった。
 二月一日、勉三は古い手紙類を読み返して夜となった。翌日、大分回復して北海道な
どへ手紙を出した。
 三日、勉三は広尾役場行きの書類を郵送し、樋口へ行って頭髪を調えてもらった。離
別の宴で「事をなすは黒頭にあり」と詠じたが、この十年で白髪は相当増えていた。こ
のままでは事を成さない前に老いぼれてしまうだろう。しっかりするのだと、己に言い
聞かせた。
 四日、勉三は佐二平に従い、池代より大鍋、そして、天城を越えて鋸機械工場など見
学し、午後五時半、世古の滝に泊まった。
 五日、共に午前五時十分宿を出て、月と霜を踏み、加殿原で朝日を見た。また、修善
寺瓜生野から馬車に乗り、午前十一時、三島大社に達した。そこを参拝、人力車で沼津
へ、芹沢で昼食をとり、十二時五十分発の汽車に乗り大船で降りた。そして、鎌倉の山
内旅亭に投宿し、夜は共に円覚寺で洪岳和尚に会い、入門した。
 勉三は、老師に悟りはどうして開けるかを質問した。洪岳は笑みを絶やさず、黙って
答えをくれなかった。また、他の僧侶も同様であった。夜十時過ぎ宿へ帰った。
 六日未明、勉三は再び円覚寺へ行き、楞伽窟でひとり座禅を組んだ。そして、心の中
の迷い全部を吐露したが、朝の薄明かりの仏像は、何の答えもくれなかった。また、洪
岳から仏道についての説教を受けた。宿へ帰って朝食、再び楞伽窟に座り、禅堂、その
他を拝礼した。再び洪岳に会って暇を告げると、佐二平も来て共に酒とうどんの接待を
受けた。
 午後一時半、勉三は他坊においての講談を聞き、佐二平は建長寺へ行くと別れた。そ
して、冬の日の心もとない樹木の陰影を踏んで境内を出た。
 その後、ふたりは旅亭で落ち合い、大船停車所から乗車、横浜で降り、元町で買い物
をしてから鈴木威三郎の家に着いた。その晩食中、外池弟が死亡したと知り、共に外池
を訪れて悔やみを述べた。この夜、勉三に睡魔が襲った。
 七日、勉三と佐二平は、朝食後元町を散歩した。勉三には見るもの聞くもの珍しく、
未来についての示唆を受けた。そして、威三郎宅で昼食後、汽車で新橋に降り、買い物
などして「泉屋」に投宿した。
 八日朝、勉三はひとり山下町の宿舎に北垣北海道庁長官を訪れが不在で、属官に会見
を求めた。だが、この属官も就寝中で、再び朝食後に行って金田属官に長官に会う手立
てを頼んだ。そして、買い物や知人を訪ね、浅草で幻灯屋などのぞき、泉屋に戻った。
 九日、北海道の知人中戸川弟が宿へ来て、午前十一時まで話した。そして、勉三と佐
二平、中戸川は万代橋近くの洋食店で食事をとって中戸川と別れ、、兄弟は 駒込の知人
を訪ね、そこを出た時、既に夜になっていた。それぞれ別の人力車に乗ったが、本郷通
りで勉三の車が十二、三歳の子供にぶつかって路上へ倒した。だが、車夫は速度を上げ
て逃げ、勉三の停車の声を聞こうとしなかった。その後、勉三は子供の怪我が頭から離
れならなかった。夜、小石川に泊まった。
 その後二、三日、北海道長官を待ちながら幻灯屋や蒸気機関など見学、泉屋、小石川
と交互に泊まった。
 十四日、勉三は朝五時に起きて支度、六時十分ごろ泉屋を出て上野まで歩いた。そし
て、北垣長官に会って帯広農場のこと、生花苗牧場のことを陳情、協力を求めた。
         
                            第一部「開発編」完



      あ と が き

 筆者は、本編を書くにあたり、「読むだけで覚えられるのは 天才で、ほとんどのひと
は書き写して本筋が理解できる」との、恩師須田昌平先生の言葉によって書いている。
そこで勉三の日記二冊半を写し取った。その少ない文字の中に、並々ならぬ苦労が滲み
出ていた。そして他の資料から重要事項を抜き取り、編年綴りとした。
 この小説のテーマは、勉三翁の「忍耐」である。ほとんどの評は「剛毅にして壮大」
「不屈不撓」としている。だが翁のそれは、ひとを寄せつけないものでなく、実に人懐
っこい。話し好きで、日記ながら誰にも「氏」の敬称をつけている。即座にフルネーム
で覚える特技の持ち主である。進められるまま他人の家の膳につき、遠慮なくご馳走に
なっている。帰郷の折りは老母のいる家から訪ね、最後に大沢の実家に帰りつくのであ
った。自分より自分の過去を知る人たちの懐にまず飛び込み、素直に甘えて北海道の厳
しさに耐えるエネルギーを得ていたことが知れる。
 翁の印象は、頑強な心身の持ち主と思われがちである。だが身長百五十五センチの小
柄で、しかも病弱であった。だから、弱い心身を北海道開拓によって鍛えようとしたの
である。劣等感こそ、北地開拓の苦難に耐えさせたとも言える。
 なお、十勝には越中衆(富山県)と美濃衆(岐阜県)が多いとされる。これは伏古村
開拓者宮崎濁卑が富山県、道庁殖民課派出所主任鷲見邦司が岐阜県出身の力による。越
中は寒冷地、美濃は明治二十五年十月二十八日に起きた濃尾大地震が十勝移民の原動力
となったのである。
 映画「新しい風」(松山善三原作)は フィクション部分がかなり多い。これが封切さ
れる機会に「第一部・開発編」の発刊に踏み切った。少しでも 真実に近いものを知らし
めたいからである。
 また最近、新選組に所属した伊豆人(南伊豆町加納出身)が北海道開拓使となってい
たことが判明した。何かここからも勉三や南伊豆町の人達が開拓を志した糸口に思える
ようになった。
 末尾ながら、勉三研究に生涯をかけた萩原実先生、編集発行に尽力された田所武氏に
心より感謝したい。HP「ようこそわが囲炉裏端へ」http://www1.ocn.ne.jp/~iroribe/」で、
関係読み物を発信しているのでご覧いただきたい。      (平成十六年五月記)                  

     参考文献:晩成社「十勝開発史」   萩原 実編  名著出版
          晩成社「十勝開拓史」   萩原 実編  名著出版
          「拓聖依田勉三」田所 武編 拓聖依田勉三伝刊行会
          「十勝開拓史話」      萩原 実編  晩 成 会
          「北海道農業開拓秘録」若林 功著 八紘叢書第一輯
          「鈴木銃太郎日記」田所 武編     柏李庵書房
          「渡辺勝・カネ日記」(机頭日記) 帯広市教育委員会