第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目
                                 

    第2章 運命の出会い(18歳から27歳)

 佐二平が、上京を許したのは、明治三年、勉三、十八の春であった。戊辰の戦乱もよ
うやく収まり、世情が落ちつつあることを確かめ、弟の背中を見送った。
 江戸が東京と名を変え、文明開化を体験すべく、勉三の心は煮えたぎった。
 それにしても、峠を越えてもまた峠が待つ、伊豆の国であった。しかし、足は飛鳥の
ごとく、箱根の険路もひと跳びの勢いであった。己も新生日本の国造りに役立ちたいと
いう志は、草鞋(わらじ)を幾つ履き尽くしても、苦にならなかった。
 さすがに東京は広い。郷里の狭小な地形、誰もが顔見知りの息苦しさ、偉大な兄から
解放された勉三は、まず大きく伸びをした。見るもの聞くもの珍しく、都会と田舎の文
化差に驚かされた。
 だが、生き馬の目を抜くほどの忙しなく動く人影を見て、勉三は、はてなと、頭をか
しげた。そして人びとに方向感がないことを見抜いた。期待の御維新は、ひとの眼光に
輝きを与えるほどではなかったのだ。政治、経済、教育の大本がくずれ、途方にくれて
いるのが大半であった。
 田舎から出て来たばかりの勉三は、
「よし、儂がこれら民衆の進むべき道を見つけてやろう」
 と、大上段に構えた。
 横浜と九段で写真店を営む鈴木真一の家を足場にあちこちと出歩き、しばらく精力的
に疲れ知らずに過ごした。
 鈴木真一は、勉三の亡母ぶんの兄である。もとは伊豆・岩地の「文左」生まれの高橋
姓だが、下田の鈴木家に婿入り、ある縁で下岡蓮杖から写真術を学んだ。画才、商才に
長け、特殊な絵の具で着色した美人、風俗、風景写真は外国人に飛ぶように売れ、明治
天皇の御真影をも撮ったと伝えられる。そして晩年、己の骨壷を用意し、それに写真と
履歴を焼き付けた。また、会津藩家老であった西郷頼母の妹未遠子と明治八年に再婚す
る。やがて結成される晩成社は、真一が真を名乗って小石川へ隠居するが、そこと横浜
とを基地に、方々への足掛かりとする。
 過重な志を抱けば、容易に入り口が見いだせないものである。まだ勉三は、誰かの助
言がなければ、決定的な進路を選ぶことは出来なかった。
 それを佐二平は見抜いていた。少し刺激のない小都市から、己の目の届く範囲からス
タートさせたいと考えた。船が交通手段の最たる時代、沼津は格好な場所であった。維
新後、沼津兵学校が開校され、学術的にも高度な土地であった。そして、弟をここに引
き寄せ、私塾で漢学を学ばせることにした。そこで暫く慣らし、続いて東京湯島にある
元南部藩主の営む共慣義塾へ進ませた。
 佐二平は、自分の手足となってもらうべく、手元に勉三を置きたかった。伊豆の地に
も新しい日本の胎動が、確かな足音をたて押し寄せていた。このまま放置すれば、この
地は文字通りの奥伊豆になってしまう危惧を感じた。時代に取り残され、村人の暮らし
を疲弊させることは、指導的立場にある己の最大の恥に思えた。それには道路を作り、
産業を興し、教育を重点的に行わなければと考えた。それには弟の力が、是が非でも欲
しかった。
 生糸が貿易の花形となった時代である。これに着眼しない手はない。佐二平は、これ
を日本のどの地にも負けない産物にするには、地域の特長が何かを考えた。はたと手を
打ったのは、主要地上州や信州より、伊豆は温暖だということである。相手が雪をかぶ
っている間に、蚕の餌となる桑の芽は、一日の長をもって伸びるはずである。世界の相
場を動かす早繭を作る可能性を予感した。それに着手すべく、妹みち、リクを含めた女
子六名を、明治六年、上州・富岡へ二年間研修派遣した。
 また佐二平は、こうも考えた。他の地に負けないために、近隣の子弟に、一流人物を
招いて教育したい。教育の重要さは、正観、三余以前から伝統としてこの地にあった。
根底には勉三を身近に置きたい一念がひそんでいた。勉学の面白さを知る勉三に、ただ
「帰郷せよ」と言ったところで、納得しないだろう。
 佐二平は、松崎組の名主たちにこれを提案した。岩科村の佐藤源吉、江奈村の福本善
太郎、道部村の奈倉惣三郎らは、諸手をあげて賛成した。
 この地は西伊豆にあるが、どちらかというと江戸、小田原、韮山など、東の方角に縁
がある。領主の旗本が江戸にあったことや、北条とのつながりで小田原、また江川代官
の関係で韮山の方角へ顔を向けていた。一時、明治になって静岡藩へ編入されたが、の
ち足柄県になったり、韮山県になったことも、その余韻であろう。また、二宮尊徳を身
近に感じ、報徳思想が徹底したのも、相模と隣接する歴史の流れからだ。
 やがて静岡県となって、必然と静岡へ足を運ばなければならなくなった。佐二平が静
岡へ出張した折り、館林藩で幽閉された西郷頼母が、保科と姓を変え、林三郎の家に居
候していることを知った。維新直後から会津藩士を大沢学舎に招いた縁もあり、断られ
てもともとと、佐二平は声をかけた。頼母は息子吉十郎と、後妻きみを養わなければな
らず、快くこれに応じた。なお当時、会津出身者は戊辰戦争で敗れたことから国賊のよ
うに扱われ、冷や飯を食わされていたのだ。
 頼母は、明治四年十月、江奈村の「寧香義庠」で教鞭をとった。続いて翌年三月から
元掛川藩江奈陣屋に於いて開設された「謹申学舎」の塾長となって、漢学を教えた。ま
た他の教師は、静岡県士族山川忠興が英語、青山学院の創設にかかわる幾島閑がフラン
ス語を担当した。のち佐藤源吉の履歴に「わが豆州に在りて、英学教授をなせるはこの
学舎を以て嚆矢(こうし)とす」と、さも誇らしげに書いている。
 佐二平は、勉三をこの謹申学舎に明治五年八月に入塾させた。
 なお、頼母は会津藩家老の時、京都守護職に就こうとする藩主松平容保を諌めて解職
された。頼母は藩民を思い、容保は幕府の縁を思っての激突であった。やがて幕府側が
形勢不利となり、頼母は復帰を認められ、戊辰の戦列に加わらなければならなかった。
これを予測しての諌言だったが、陣頭に立たなければならない運命の皮肉さを思った。
だが、その苦笑も一瞬で止め、白河口の総督となって新政府軍に敗れ、再び責任をとら
されて閉門となった。そして、味方からも追われるように、函館戦争に幕府軍として参
戦した。
 今でも語り草となる明治元年八月二十三日、母、妻、娘、妹、その一族二十一名の女
たちが、頼母の出陣中、邸内で自刃して果てた。母と妻は血筋を絶やさぬようにと、吉
十郎を残した。男だけが生き残り、頼母は「腰抜け侍」と、罵られながらも、それに耐
えた。
 その体験を頼母が語ったことから、勉三の心に北海道への種が蒔かれた。最北の地に
未開の大地が眠ること、榎本武揚のエゾ地共和国構想があったことなど……、二十歳の
勉三は、これを食い入るように聞いた。また、尊徳が幕臣となった晩年、幕府から北海
道開拓を要請されたことも伏線としてあった。
 勉三は、これらを見聞する度、高潔な人間も運命に翻弄されることを知った。なお、
明治五年九月二十三日、鈴木真一撮影の謹申学舎の写真があるが、これには塾長頼母、
勉三、久良之助(注=勉三も これを幼名にした。のちの善吾)、新四郎(佐二平長男)
らが写されている。
 明治七年八月、謹申学舎は閉じられ、勉三は即座に福沢諭吉の慶応義塾に入学した。
佐二平が己を必要とすることは分かったが、学問の諸口部分で終わることも、狭小な土
地で窒息死するのもいやだった。
 福沢諭吉は、独立自尊を説き、日本再生の教育に努めていた。「単なる学術に 甘んじ
ることなく、知識啓発の源泉である徳育を以て立国の大方針とし、これを実践躬行して
国家社会の先導者たれ」「人口が年々激増、これに耕地が伴わない。今こそ 不毛の地を
開拓して食糧の欠乏を補うべし」など、国家を憂いる言葉は、純粋な勉三の胸底に響い
た。
 なお、諭吉は、北海道開拓使庁長官・黒田清隆に、友人 榎本武揚の助命嘆願して死罪
から救ったという。
 ちなみ清隆は薩摩出身で、西郷隆盛直属の人物であった。函館戦争では官軍の長で、
五稜郭に籠もる武揚に降伏を勧告した。武揚はその案を呑まず、逆にオランダ留学で手
に入れた「海事全書」を「新政府でこれを活用願いたい」と、決戦での紛失を恐れて使
者に手渡した。これは海事関係国際法の原書で、これを受け取った清隆は、感激して五
稜郭の敵に酒樽を贈った。なお、新政府にこの「海事全書」を訳せる人物がいなかった
ので、その翻訳のため武揚は助かったともいう。
 西郷隆盛、黒田清隆らは、失業武士を救うため、北海道に新天地を求めていた。そし
て清隆は、かねがねこの構想に武揚の力が欲しかった。やがて武揚を使って北海道を視
察させ、外国資本の汚染から救った。
 諭吉は、これらの経緯を熟知していたから、北海道がこれからの日本にとって、いか
に重要であるかを、勉三ら塾生に説いた。
 アメリカ農政家ホーレス・ケプロン一行が 来日したのは、明治四年であった。清隆が
みずか渡米、大統領グラントに懇願、招請した人物である。ケプロンの北海道視察レポ
ートは、三余、尊徳、頼母、諭吉の伏線もあり、勉三に決定的な衝撃を与えた。
 その「ケプロン報文」は、
「そもそも本島の広大たるや、アメリカ合衆国の西部の未開地に等しく、その財産は無
限の宝庫である。これを開拓すれば欲するところの物資はことごとく備わないものはな
い。かかる肥饒の沃野を放置するは、日本政府の怠慢と言っても過言ではない。(中略)
思うに政府は信実な人物を得て、随意に移住させるべきである。自他のために開拓し、
その土地を守る者あらば、これは国家の宝である。もし、放置するなら、外国がこの地
を侵略するであろう。それは必ず後世に悔いとなろう。このわが探検は、先例になく、
日本国民にとっても一大先駆というべきものである」
 とまで、指摘していた。
 何とストレートに胸を突く文脈であろう。欧米人の自由の心は、ここまで表現出来る
のだ。外国ははるか向こうを突き進んでいると、勉三は呆然自失した。やがて、唇はわ
なわなと震え出した。維新の世の中になっても日本という国は、外国の口出しがなけれ
ば何も出来ないのか。毛唐人にこれほどまで嘲笑されているのに、なぜ目覚めないのか。
そして、涙がとめどもなく流れた。腹の中に真っ赤な焼け火箸を差し込まれた思いであ
った。
 秀才の誉れ高い勉三が慶応義塾へ入学した時、おらが郷から大臣が生まれると、村人
は小躍りしたという。一途に学問に精を出し、頭角を現す彼に期待したのだ。卒業すれ
ば破格な月百円の俸給取りが誕生する。羨望の眼差しと、我がこととして喜んだ。
 だがしかし、勉三の心はケプロン報文に接し、百八十度転換した。学問は実社会に生
かされてこそ、本物ではないか。理論だけで実践の伴わないものは、絵に書いた餅以下
だと、受け止めた。
 そのころ勉三は、胃病と脚気症に悩まされていた。彼らしい発想は、学問を投げ去り、
北海道を開拓しようと心に誓った。開拓によって、この弱い身体と精神を鍛え上げよう
と考えた。
 それに彼の胸底にあったのは、兄佐二平に抱き続けた劣等感のくつがえしだった。兄
を超えるには、何をなすべきかの命題の結論を得た思いであった。
 彼の頭脳にひらめきは、ケプロン精神を育んだ西洋を知らなければということであっ
た。勝負に勝つには、まず敵を知らなければならない。極言されれば、こちらも匹敵す
る反論の技量を持たなければ、降伏するよりほかないのだ。
 そして、それはどこで学ぶべきか、街中を彷徨して勉三は情報を集めた。その中に、
明治七年、イギリスから牧師として来日したワッデルが、塾を開いていることを知った。
ワッデルは妻子を伴っていたが、日本人より日本的で包容力のある人物だという。
 勉三は、それを諭吉に相談してから決めようと思った。だが、折あしく遊説中だった
ので、直接その門を叩くことにした。
 西久保にあるワッデル塾の玄関へ足を踏み入れたところで、ふたりの青年に出会った。
まったくこれは、運命的出会いというよりほかはない。やがてこの三名が、晩成社の幹
部となって生涯を北海道で送ることになる。
 初対面でその名を知らなくても、ふたりは血相を変えた勉三の話に引き込まれた。
 勉三は、懐から小冊子を出し、
「諸君は、このレポートについてどう思うか」
 と、いきなり切り出した。
 三人の年齢は、勉三より一歳下が渡辺勝、鈴木銃太郎は三歳下であった。なお、勉三
の年齢は二十四歳である。このワッデル塾では逆に一番若い銃太郎が先輩で、次に勝、
勉三の順であった。なお、銃太郎は一年前の明治八年より、勝にいたっては一カ月しか
経ってはいなかった。
 勉三のほかは元士族で、勝など「俺の先祖は、渡辺綱である」と、吹聴する尾張藩の
出身者、郷里名古屋では首相になる加藤高明と同窓だった。また、銃太郎は信州上田藩
鈴木親長の長男であった。
 彼らは喧々囂々、口角泡を飛ばして論じあった。
「それは一大事である。日本男児として捨て置く訳にはいかないではないか。北海道が
ロシアの南下政策によって略奪されたら、国家の一大損失となる。俺は一命を賭しても
絶対守る」
 と、不精髭の勝が言う。
 すると、銃太郎が、
「私は主イエスに身を捧げ、牧師になろうとする身だ。北地の和人、アイヌのひとたち
にキリスト教を広め、互いに仲良く農業に精励する心豊かな風土、北海道を創造したい」
 と、言う。
 勉三は、
「伊豆のように土地が狭く、人口過多の地から広大な北海道へ移住させたい。広い土地
を拓いて自作する百姓に、貧しさから開放するのだ。農業は儂の天職、国家に対する義
務だ。無用な者が有用な者になれる、千載一遇の好機として捉らえたい」
 と、結んだ。
「では、いつ出発する」
 ふたりの若者の性急さは、勉三に迫った。
 勉三も、それに気づき、
「北海道へ渡るかの予定はまだである。だが、兄や一族に頼べば何とかなる。少し時間
をくれまいか」
 と、口ごもりながら言う。
 三人の心は、まだ見たことのない、どんな困難が待つか知れない北海道へ飛んでいた。
この堅い友情が結ばれたのは、明治九年二月であった。
 ワッデルは、キリスト教布教のかたわら、日本の若者の眼を世界へ向けようとしてい
た。
 勉三の質問に、
「緯度的に言えば、北海道はイギリスよりはるか南、作物をつくるには有望なはず」
 と、答えた。
 勉三は、直ちに佐二平への説得に伊豆へ帰りたかったが、ワッデルから学ぶこともあ
り、半年間そこで学んだ。
 勝は以前、電信技術を学んでいたが、教師と喧嘩して寮を追い出された。その滞った
六十円の寮費を催促され続けた。こんな時、友人の紹介でワッデルを知ったのだった。
 日記に、
「ワッデル先生、生(勝自身)の服の垢つきたるを見て金六円を貸す。よって綿入れ羽
織等を買う。この時皆笑う。生、勝にあらずして他人のごとくに見ゆ。(中略) 生、こ
こにて英学変則を教授して月々三、四円を得ることを得たり」
と、師との対面を描写している。
 また勝は、ひとの心に入るのが巧みで、ほかに夫人に日本語を教え、二円をもらって
いる。そして、夫ワッデルから聖書を学び、洗礼を受けた。

 勉三の北海道への情熱は衰えず、時には横浜の鈴木真一写真店に寝泊まりして、辻説
法をした。それを偶然にも銃太郎の父親長(ちかなが)は聞いた。彼は農業に対するよ
き理解者で、勉三のそれに深い賛同を示した。一方、銃太郎は、友と父の双方から感化
された。のちに築地の神学校へ入って、牧師の資格を得た。
 気さくな性格の勝に、勉三はすぐ意気投合した。佐二平を説得しようと伊豆へ向かっ
たのは、明治九年九月であった。熱い思いを語り合うには、徒歩の旅が最適であった。
夜風に吹かれての野宿もあれば、箱根の堂ケ島温泉に入りながら、北海道へ思いを馳せ
た。なかでも堂ケ島の樹木鬱蒼たる渓谷を好んで五泊した。彼らにとっての開拓前夜、
このような贅沢をしても許される気がした。そして、山道の猫越峠(ねっことうげ)を
経て、郷里の大沢へ着いた。
 だが、熱い思いに肩透かしを食わせるように、佐二平は不在だった。
 佐二平は、伊豆における機械製糸の初めといわれる二十五人繰りの工場を操業してい
た。また、自邸内には延べ床面積三百坪近い三階建の大養蚕室を建設中であった。清涼
室や温度調整設備も用意され、ここで試験されたものを一般農家へも普及させようとし
ていた。それに彼は、伊豆における中等教育機関の設置運動にかかわっていた。なお、
この年は足柄県が廃止され、足柄県会議員から静岡県会副議長就任、郡長もしていて、
文字どおり東奔西走していた。
 勉三と勝は、兄に面会して北海道開拓の許しを一日も早く得たかった。そこで佐二平
が郡長をしている下田を尋ねることにした。蓮台寺を探し、下田まで歩いた。だが、手
紙や伝言だけの時代、足を棒にしても他へ出張していて会えなかった。空しく勉三らは
大沢へ戻った。また、勝は大沢に四日ほど滞在するが、ついに佐二平は現れなかった。
 勝は、東京に約束事があり、勉三をひとり置いて再び猫越峠を経て、湯ケ島に一泊、
東京へ戻った。なお、帰りがけ勉三に、「早急に 許可をもらうように」と、念を押すこ
とを忘れなかった。なお、この旅行費用すべてを勉三が賄った。

 ようやく勉三が佐二平に会った時、兄に先手を打たれてしまった。豪壮なまでに建設
中の養蚕室を見回りながらの一言は、北海道開拓の口火を封じられる結果となった。親
代わりとなって育ててくれた兄である。開拓に燃える言葉を胸底へ収めなければならな
かった。逆に上州・熊谷へ養蚕および製糸技術の習得に行くように命じられた。やがて
明治十年には、四十人繰り製糸機械場が松崎より移転された。それに桑園改良研究のた
め、常陸や信州にも他の人達が派遣された。
 勉三は上州から帰ると、派遣研究の成果を女工や村人に教えた。また、蓮台寺には中
等学校の創設が具体化され、そこの教師になるよう説得された。ますます北海道が遠く
なるばかりで、焦燥感にかられた。
 学校の名は「豆陽学校」と命名され、現下田北高等学校の前身である。勉三は教員の
選任を一任され、渡辺勝を教頭に迎えた。勉三は兄のペースに巻き込まれ過ぎるため、
勝の応援を得て、佐二平を説得したい下心があった。
 勝が再び大沢へ来たのは、明治十一年八月二十八日で、そのころ築地神学校へ通学し
ていた。銃太郎とはここでも同窓となり、ふたりは、勉三がいつ北海道行きを知らせて
来るか、一日千秋の思いで待っていた。勝は教頭就任を承知して来たが、本心はぬるま
湯につかる勉三を督促するつもりであった。
 だが肝心の勉三は、勝が大沢に着くと出張中で、十一月十八日にようやく再会した。
その間、開校の日取りも決まらぬまま、退屈な日々を過ごした。
 その後、勝、勉三、久良之助(善吾)は、土屋準次から手ほどきを受け、北海道開拓
の予行演習のつもりで、那賀の畑を耕した。彼らはこんなことで気分をほぐし、伊豆の
風土と人情に慣らされて、北海道開拓のことを口に出せなくなった。
 ややして郡長となった大野恒哉から呼び出しがあり、勉三と勝は共に蓮台寺に赴き、
「来春早々開校」とのお達しを受けた。
 明治十二年一月十五日は曇りであったが、誇らしげに豆陽学校の授業が始められた。
午前九時より勉三が日本外史、十時より勝が英語の講義をした。共に心は北海道にある
にしても、教育の重要さを知るふたりなので熱の入った内容であった。輝く瞳をこらす
生徒の出会うと、北海道を忘れる瞬間さえ生じた。
 やがて勉三は、多くの人達した豪語と、初心の北海道開拓の沸々さがよみがえって来
た。時間が無為に過ぎていく感覚となり、己の無力を感じた。そして胃が痛み、眉間に
深い皺を寄せるのだった。
 四月五日、勉三はリクと結婚した。この間、大蔵省への奉職、有力者への婿入り話も
あった。だが、どんな縁談があっても、彼は首を縦に振らなかった。あの日、母の葬儀
で彼女を見てより、結ばれる運命を感じ続けていたのだ。
 しかし、この結婚は順調にことが進んだ訳ではない。発想が突飛で、執拗な勉三を警
戒する者も少なくなかった。まして、北海道開拓話も漏れ出ていたから、
「北地の開墾に、塗り屋のか弱いお嬢が……」
 と、心配するのだった。
 なかでも猛反対は勉三の姉、善六に嫁いだみさであった。弟の性格、義妹の病体質を
知ればこそであった。どちらかが悪くなれば、その板挟みとなる自身の運命を恐れた。
 だが、結果的にリクが、勉三に好意を持っていたことで決着、結婚となったのであっ
た。
 勉三は、箸より重いものを持たないリクでも、根性さえ備われば、北地開拓も可能と
考えた。最愛のリクと一緒なればこそ、荒蕪地の開拓が出来るのだという、発想の持ち
主であった。