第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目

     第3章 晩成社結成(27歳から30歳)

 結婚で腹を据えた勉三は、周囲の説得に乗り出した。男が結婚して社会的独立した瞬
間であった。
 ワッデルが、明治十二年五月十九日、大沢学舎で勝と共に、村人に説教したことも大
きな刺激となった。思えば、勝、銃太郎と運命的出会いより四年の歳月が流れているこ
とを、重く受け止めなければならなかった。
 東京付近で神父をしている銃太郎、親長からも、遠慮がちながら北海道開拓の督促文
字となって舞い込んでいた。
 晩成社の名は、親長が性急な勉三を諌めるため、
「『大器晩成す』の心構えで開拓に従事せよ」
 と、命名したという。
 だが、この名付けの親すら、この空白の月日に焦れていた。
 親長は、上田藩勘定奉行村松親賢の三男で天保三年生まれ、のち鈴木直の婿となる。
彼は文武両道にすぐれ、藩校、武学校指南役を務めた。明治五年、一家をあげて上京、
本郷に移り住んだ。信州が養蚕の本場であることから、桑園を購入して種繭の生産を始
めた。だが、急激な増税や輸出の不振から大損害を被った。その後、横浜で外国人に日
本語を教えるようになった。先に書いたがこの頃、勉三の北海道開拓の熱弁を聞いたの
であった。
 親長は、ある日家族を集め、
「日本国民は、太古はみな農夫であった。人間が増えるに従って職業が別々になり、士
農工商の四民が出来上がった。わが家は禄を失ったのだから、昔の農に帰らなければな
らない。しかし、小作人となることは、士族の体面上出来ない。また、他人の拓いた土
地を買い取って農業を営むことも潔しとしない。幸い北海道は未開の土地が多い。一家
はこれに移住、新たな土地を拓いて農業を経営するなら、一に報国、二に家計を支える
道で、かつ武士の本懐である」
 と、説いた。
 やがて彼も晩成社に加わり、北海道へ渡って開拓に携わった。そして「十勝国移住案
内」や「北海道団結植民法」などを著し、晩成社を陰陽となって応援した。娘カネも勝
と結婚、彼女は十勝開拓の母と称されるようになる。晩成社を語る場合、この一家は忘
れてならない存在である。
 また、親長、銃太郎、カネ、勝は、洗礼を受けた熱心なクリスチャンで、勉三も信仰
に理解を示した。宗教は未開地入植にあっては、不可欠なものなのである。

 一方、依田一族は、欲を深めて財を成したのでない。幕府は財政逼迫するなか、領主
は年貢前納の施策など執った。穫れて納められる百姓の年貢を前納せよとは、失政その
ものである。一族は土地が生み出すものを大切にし、農林業、醸造、商店、回船問屋を
したし、生活は質素であったので財力は増した。また、名主も務めていたので、百姓た
ちに泣きつかれた。結果は田畑、山林、家屋敷が質草となって流れ、一族に集中した。
 そして、領主の旗本などその資産を標的にし、お家安泰のため大きな借財を申し入れ
た。はては七十年賦など無理難題を吹きかけ、その見返りに名字帯刀を許し、士族に準
じさせた。
 富が一族に集まると、社会的責任も生じさせた。まして狭い地域社会、何につけ資本
と知恵を求められた。一族の家訓は「正直にして偽りなく」とし、質素を基本としたが
進取の気概え持ち合わせていた。
 そして、佐二平と善六は、辺鄙な伊豆の地に道路、海運、殖産、電気、郵便、教育、
金融、社寺、政治など率先して、江川坦庵の善政を倣おうとした。
 佐二平は、弟の健康と北海道開拓の覚悟の深さを、黙って測っていた。この地方は、
二宮尊徳の「報徳思想」が普及していた。己が長男でなかったら、尊徳の仕法で小笠原
諸島や北海道の広野に挑んでいたことであろう。勉三が病気を理由に学業を捨て、帰郷
した時から、正式に開拓話を持ち出すのを楽しみにしていた。それがために、彼の志が
本物か、猪突型人間改良のためにも、種々仕事を命じたのだった。
 一方、勉三の側からすれば、恩ある兄が身を粉にして下田、韮山、静岡、東京と、働
き続ける姿に、開拓話を切り出せずにいた。
 勉三は、佐二平に深々と頭を下げた。
「兄さん、かねがねお願いしようと思っていました。北海道の開拓が儂の天職だと感じ
てから四年の歳月が流れました。これ以上延ばすと、友情の維持、己の一生が何である
かが分からなくなります。一生一度のお願いです。儂を男にして下さい。北海道開拓を
許して下さい」
「勉三よ、よく言ってくれた。私が惣領でなかったら、広い世界に飛び出し、思い切っ
て暴れていたろうよ。それに私は、伊豆が必要としている。小笠原に魅力を感じるが、
これは誰かにさせよう。お前は我が分身として、北海道開拓に専心しろ」
 と、佐二平は感慨深かげに言い、次の言葉につなげた。
「だがな勉三よ。開拓とは心や頭、金銭で出来るものではない。北地に適する作物、開
墾の手順、道具、鎌鍬、鋤の知識、技術も必要になる。現地をよく研究しなければひと
を率い、命を預かり、資本を運用する責任者にはなれない。そうそう、お前は報徳訓を
覚えているか」
 と、ふいを衝くようなに言った。
 勉三は、下腹に力を入れ、目を閉じ大きく息を吸った。そして、
「父母の根元は天地の命令にあり、身体の根元は父母の生育にあり、子孫の相続は夫婦
の丹誠にあり、父母の富貴は祖先の勤功にあり、わが身の富貴は父母の積善にあり、子
孫の富貴は自己の勤労にあり、身命の長養は衣食住の三つにあり、衣食住の三つは田畑
山林にあり、田畑山林は人民の勤耕にあり、今年の衣食住は昨年の産業にあり、来年の
衣食住は今年の艱難にあり、年々歳々報徳を忘れべからず」
 と、よどむことなく唱えた。
 勉三は、尊徳の言葉の意味が重いものだということを今となって理解出来た。以後、
これを唱えて一日の出発点とした。
 そして、兄がこのように物分かりがよいのなら、なぜ早く切り出さなかったかを悔い
た。
 だが、兄の「我が分身」の語が、妙に胸に刺さった。兄を超えようとの思いが、北海
道の開拓であったからだ。それを思うと、苦笑が片頬に走った。やがて眉間から縦皺が
消えた。心を打ち明けてすっきりしたのだ。
 早速、勝に伝え、銃太郎、親長らにその旨を手紙にした。
「ますらおが心定めし北の海 風吹かば吹け波立たばたて」
 の歌が蘇り、勉三は生涯の主題歌にした。不退転の覚悟を示すと同時に、リクとの新
婚のとろける甘美さに歯止めをかけた。
 勉三は、明治十三年、教務のかたわら開拓についての文献をあさった。

 勝は、招かれて九月二十五日、岩科学校開校式に列席した。
 日記に、
「土曜日、晴。諸君と共に舟に乗じ川を下り松崎に至り、直ちに岩科村開校式に赴く。
十一時大迫公、蜂屋学務課長、佐二平、岡田両郡長らが臨して式行わる。生(私)も演
説す。午後二時式終わりて、饗応の席に付く。美味備わり尽くせり。花火昼より夜に至
り数百発、誠に盛大なる開校式なりと大迫公はじめ喜ばれたり。夜、松会楼に泊まる。
鈴木真一に会う。大迫、蜂屋に初めて言を交ゆ」
 と、左官の名工 長八が細工を施した、洋風バルコニーを持つ、現在、重要文化財・岩
科学校となっている開校式の模様を描いている。
 なお、そこに掲げてある「岩科学校」の扁額は、三条実美の書である。そして、千羽
鶴の間には、山岡鉄舟の二幅の書がある。
 「いうなかれ 今日学ばずして 来日有りと、
  いうなかれ 今年学ばずして 来年有りと、
  日月は逝く 歳は延びず ああ、
  老いたり これ誰の愆(あやまち)ぞ」
 と、達筆そのものである。そして素晴らしい言葉だとは思う。
 鉄舟は、長八と友人関係にあり、その縁で時の大政大臣(首相)三条実美とのつなが
りを得たのだろう。奥伊豆にあっても、このように全国に伍していける誇りを開校式で
学びとった。

 明治十四年八月、勉三は単身、横浜から船に乗り、函館に着いた。それより函館所見
〜蕨野開進会社〜森〜勇良払〜長万部と礼文家〜室蘭〜函館帰帆〜根室渡航〜根室近傍
〜釧路より陸行をきて、十月一日、初めて十勝の土を踏んだ。
 「北海紀行」に、
「十月二日、晴。朝十勝川を渡り、一里半にして誤って山に入る。かえりみて十勝の野
を望むに海を沿うこと一里半、十勝川をさかのぼること八、九里にして平原あり。渺芒
として限りなく、中に十勝川の曲流あり、沼あり、池あり、その光景名状すべからず。
(略)また聞く十勝川の上流に十里の平原あり。小舟は三十里至るべしと。しこうして
明年、北海道開進社は一万町歩をこの地に卜し、田内某はサツナイフト九州天草の人民
を移さんとし、某はトシベツに百戸を移さんとし、某はオサウシに水田を開かんとす。
また河東郡にオトプケという所あり、トシベツに次ぐ暖地にして…… (略)。海浜に沿
うて行くこと四里、湧洞に至り中食す。この辺り山低く、平原多く沼あり、林あり。巨
木無数漂着して行路を遮る。三里余にして日は海に没し、細雨来る。よって路を野にと
り、草を排して急行す。雨ますます滋く、天暗黒なり。雨をおかして一里半、歴舟川に
至る。時まさに七時を過ぐ。ここに大なる旅店あり。余ここにしきりに泊せんとする念
あり。しかれどもまた明日河水暴漲せんことを懼(おそ)れて、ついに河を渡る。水、
膝を踰(こ)ゆ。畢(おわ)って深叢に入る。路なし、時に夜方八時ならんか。縦横に
路を求めて得ず。よって大呼して居人を尋ねれども応えるものなし。あるいは木に攀じ
て人家を探らんと欲すれども、枝動いて履盆の雨あり。雨脚と草露と衣裳をぬらし、手
凍えて傘をとるべからず。身体疲弊して足指傷つく。野宿せんか、雨降ることはなはだ
し。廃寺古祠に投ぜんか、内地にあらざれば得るべからず。よって更に踵を回して再び
河を渡り、彼の旅亭に投ぜんことを欲し、川上に至れば物あり、黯然として形をなす。
近づいてこれを見れば雑草を刈り束ねて乾草となすなり。よって思うにこの地、何人か
来てこの草を刈りてなるべし。即ち必ず経緯あらんと。この乾草場を回る二、三回、径
路のごときものあれば、すなわち必ず行って人跡を尋ぬ。このごとくすること数次、初
めて道のごときものを得たり。余、あるいは喜び、あるいは危ぶみ進行すること八、九
丁、初めて街道に出ず。これ広尾に向かう道なり。よってこの道を逆行し、歴舟川に向
かって進むこと七、八丁にして一小屋を得たり。すなわち扉を敲き請うて茲に泊す。時
に十時なり。この家円木を結んで柱となし、蓬を編んで壁に代える。炉辺ただ数枚の筵
を敷くのみ、その陋(ろう)言うべからず。しかれども一家厚情にして余を遇するすこ
ぶる慇懃なり。主人は褞袍を脱いで余に被せ、家媼は余の湿衣を乾燥す。この家幸いに
酒あり。この歓待と一瓶の酒とを以て僅かに本日の労を慰め、ついに炉頭に眠る。聞く
に歴舟川は西南風発すれば、一滴の雨なきも河水暴漲するを以て人呼んで西南風川とな
し、歴舟川と言うもの更になしと。また土人伝えて言う。この水源に湖あり、かつて往
きて見たるものなかりしに、ある時一土人その湖に至れば、土人の宝物充満し、また昆
布湖水に生ず。これを採って乾かせばことごとく化して蛇となる。しこうしてその土人
は湖主に請い、一度郷里に帰るも再びこの湖に来る約あるを以て再び山に入ってついに
帰らず。爾来、人その水源を尋ねて帰るものなしと。この地にしてこの怪説あるはあえ
て奇となすに足らずといえども、また水源の遠く深林幽谷に至って人跡の及ぶべからず
を証すべし」
 と、長文の日記にしている。
 また翌日、広尾の体験を、
「十月三日、曇天。時に雨降る。(中略)時に 日既に昏れたり。漁戸に投じて泊す。初
めこの家に至るやたまたま、鮭の初漁にして漁夫十数人祝宴を張りて囂々たり。余つい
て一泊を乞えども応ぜず。再三すれども皆聞かざるに擬して応ずるものなし。辞を卑う
して強いて乞う。あたかも乞児のごとくす。これに於いて一漁翁、情あるがごとくしば
らく炊婦に謀る。炊婦ついに諾す。この家は主人他出しておらず。土人これを観守す。
余また土人に敬礼し、慇懃に一夜の厚意を謝す。土人に向かいて平身低頭することの出
来せしこともまた一奇事と言うべし」
 と、屈辱的現実も味わった。
 この行程において幾つも難儀したが、燃える開拓心は、意に介さぬ小事に思えた。
 この時代の十勝は、和人の漁師や猟師が海岸線に住み、アイヌ村落もやや内陸に点在
する程度であった。
 勉三の十勝滞在は三日間で、奥深い帯広の地には踏み込まなかった。
 また、日高〜沙流川〜土人集落〜札幌のコースをたどり、農事研究と開拓の将来を探
った。
 そして、北海道開拓使庁に寄った。
 当時は石狩原野開拓時代で、
「十勝の開拓は時期早尚だ。十勝はまだ我々でも知らぬことの多い土地だ」
 と、親切とも、冷たくともとれる扱いをうけた。また、石狩の探見をすすめ、札幌付
近の苗穂村など、具体的に推薦した。
 だが、その直後知った「道東地方内陸踏査記録」と、自ら登山して見分した十勝原野
が重なって二歩も三歩も、十勝に傾くのだった。
 踏査記録報告者は、クラーク博士の息がかかる札幌農学校第一期生・内田瀞(きよし)、
田内捨六である。彼らは勉三と同時期に、ルウトブウシナイ嶺に登頂し、十勝全土を見
下ろしていた。
「天造の大牧場なり。……十勝は耕耘に適するところ。……十勝原野を二十五里四方に
推定するならば、百十三万頭の牛、一頭三十円とするなら三千三百万円。……開拓が進
んで荒野変じて良田となるならば、これに数倍する産物が得られるであろう」
 という内容であった。
 だが勉三は、この文中末尾にある「道路開設は開拓の大本なり」という部分を見落と
していた。これも「帯広方面に天草の民衆、二百余戸移住計画」と仄聞すれば、一番乗
りを決めてかかるのも無理からぬことであった。

 翌明治十五年二月、「塗り屋」(善六宅)において、晩成社規則が作成された。この会
合には一族のほか、渡辺勝も加わった。そして三月、鈴木銃太郎も来豆、規則書印刷な
どに尽力している。四月、善六(園)、佐二平、勉三、久良之助(善吾)が 発起人となっ
て調印、社長には善六が就任した。