第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目

                                      
     第4章 帯広の地に決定(30歳)

 土地貸下げ請願と開墾地選定、着手準備のため勉三は、明治十五年六月一日に大沢を
発った。また、銃太郎も横浜から同じ船に乗り、北海道へ渡った。
 まだ帯広と決定した訳でなく、札幌の開拓使庁で、まず石狩地方について質問した。
 この時、勧業課渡瀬寅次郎が、日高、十勝地方を巡回して来たという情報を得た。ふ
たりは早速、渡瀬宅を訪ね、矢継ぎ早に十勝の地理について聞いた。それに対し渡瀬は
昨年のバッタ被害を地図上に示し、地形について説明した。そして、静岡県人のよしみ
(沼津兵学校出身)から「十勝より石狩」を勧めるのだった。
 だが、先入観念の強い勉三の心から十勝は離れなかった。また、銃太郎も既に洗脳さ
れていたし、浦河郡庁行きの添書を手にしていた。
 ふたりは、書記官佐藤秀顕の自宅へ押しかけ、晩成社則を示し、熱弁をふるった。
 すると、佐藤は鼻先で笑うように、
「そんな微力な資本力では、志望の達成は難しいであろうよ」
 と、そっけない態度を示した。
 勉三は、即座に切り返し、
「しかれども、我が社の異なる所以のものは、虚飾に拘わらず、一に節約し、速成を望
まず、もっぱら晩成を旨に……」
 と、願意をまくし立て、説得にあたった。
 また、移民給与の件につき、社則や地所下付願書を携えて、道庁へ何度か往復した。
 そして、札幌より日高へ向かう時が来た。
 その時の勉三の日記は、
「六月二十四日 晴。早旦行李を装うの時、加納君の来訪を辱うす。十時宿舎を発し、
武林君の宅を過ぐ。君われらの旅情を慰めんがために火酒一瓶を贈らる。また蚊帳を恵
貸せられんとせしが辞して受けず。(中略)行程 僅かに五里なれども、札幌を発する時
遅きと、行歩の遠きに慣れざるを以て、各々疲労を覚えたり。
 また、札幌を発する時、二人盟(ちか)って曰く。「行路は 山中を跋渉するの労を嘗
(な)むるを主とし、決して馬に騎(の)るべからず」と。そも二人の旅装たる各々洋
服を着し、毛布、胴乱を負い、手に剣杖と鳥銃とを携えり。その夜、勉三信書をしたた
め依田佐二平に寄す」
 と、記している。

 ここで「開墾地下付願い」についてふれたい。大書記官佐藤秀顕あてに提出したもの
である。

       開墾地下付願い
「私ども今般別紙規則を編成仕り、当道開拓の志ありてその資金に乏しき者、あるいは
これ無き者へ資金を貸付け、漸次十五カ年間に、一万町歩開墾仕るべく見込みに御座候
処、地代上納仕り候。ついては到底貧民の負債相重なり候場合に立至り、且つ当社資本
も甚だ微かにこれ有り、開墾の目途相立て難く候間、この段御燐察下され、大政府拓地
育民の御趣旨に基とされ、出格の御詮議を以て右地所墾成の上は無代価御下付仰付けら
る様、願い上げ奉り候。しかる上は移住人民、即ち当社の者共一同感奮ますます勉励仕
り、御国恩の万一に対え奉りべく候。尚実地個所の景況によりその都度相当の地所御割
渡し方出願仕り、御指導に随い追々区域拡張、開墾従事仕りべく候得ども、その隣地に
来り開墾相営むものこれ有り候とも当社に於て差し仕え御座なく候。何卒特別の御寛典
を以て墾成相成り候分は無代価御下付の儀仰せ下され置きたく謹んで懇願奉り候也。
            平民 当時札幌大通西四丁目石川方寄留
                  北海道晩成社発起人総代 依 田 勉 三
  明治十五年六月                            」
 と、いうものであった。

 七月四日、勉三と銃太郎は、日高と十勝の国境を山越えして広尾に宿をとった。そし
て六日、大津へ到着。ここで数日間滞在し、戸長役場や同地開祖といわれる堺千代吉ら
を訪問、十勝の地味や風土をつぶさに聞き、また、現地調査をした。
 勉三と銃太郎の耳には、天草の民が大挙して押し寄せる足音が聞こえる錯覚にとらわ
れた。先を越されてはならじと、大津からアイヌの丸木舟を雇い、十勝川をさかのぼっ
た。
 七月十五日、ふたりは初めてオベリベリの土を踏んだ。帯広と呼ばれる土地で、三日
間、近辺を観察した結果、予想以上に肥沃で広漠たる原野であることを発見した。ふた
りは歓喜し、ここを入植地とした。
 帯広の開拓記念日が、七月十五、十六日となったのはこれによる。 そして、十勝川
を下って再び大津へ戻ったふたりは、次のような地所下付願書に図面を添え提出した。

         地 所 下 付 願
  十勝国河西郡字オベリベリ
 一、荒蕪地  百万坪
   右地所に於て開墾の見込み相立ち候間、先般出願仕り候通り当社の者へ御下付相
   成り度く、図面相添えこの段願い奉り候也。
                 北海道晩成社発起人総代
                 静岡県伊豆国那賀郡大沢村十七番地
              当時 札幌大通四丁目一番地石川方寄留
                         平民 依 田 勉 三 印
  札幌県令 調 所 広 丈殿
      前書の通り願出候に付、奥印の上進達候也。
                  十勝郡長      山 田   謙 印
                  十勝外四郡各村戸長 芹 沢 光 憲 印
    明治十五年七月三十一日

 この手続きを終えると、勉三は移民引率のため帰郷することにした。一方、銃太郎は
アイヌ小屋を買い取り、作物の耕作をし、実験しながらこの地で越冬することにした。
なお帰途、勉三は八月十三日から九月三日まで札幌の県庁へ寄り、庁議を促して指令
を待った。この時、加納(南伊豆町)出身の開拓使加納通広が周旋役として骨を折って
いる。彼も最初は十勝開拓を諫め、札幌近郊を勧めたひとりであった。なお元新選組時
代は道之助を名乗り、近藤勇に追われて薩摩藩へ逃げ込み、赤報隊、政府軍、のち大久
保大和の偽名を使う捕囚・勇を検分、見破る歴史的人物である。そして黒田清隆に随い
開拓使庁の役人になっていたのである。
 それより勉三は、九月四日、六月に出した願書の指令を受け取り、不備を松崎へ照会
し、返事を待ちながら製麻の研究、大沢に着いたのは、十二月六日であった。
 また、勝はこの間、近村にコレラが流行し、長くなった夏休みを利用して、晩成社の
株主募集のため奔走した。そして翌十六年一月、銃太郎の妹カネとの縁談が整ったこと
から、東京、横浜へ出掛けた。東京ではワッデルに、横浜では二百十二番女学校(共立
女学校)校長クロスビーに面会、カネとの婚約を告げ、ご馳走になった。また、親長の
家に婿として初めて挨拶に行き一晩泊まった。
 伊豆へ戻った勝は、再び株主と移民を専心募るため、教頭職を一月十九日付で辞職し
た。そして田方平野、熱海から伊東、また西海岸、奥地まで隈なく歩いた。
 なお、この年二月は、伊豆にあっても雪深く、十勝の銃太郎を思いやることが多かっ
た。
 もちろん勉三も この募集に加わり、遠く静岡まで足を運んだ。だが、蝦夷地・北海道
と聞いただけで、誰もが尻込みした。愛国を説いても、広大な田畑の地主になれると言
っても、厳寒で熊の出る北地開拓は、御免だと顔をそむかれた。
 また、大沢の地元では、佐二平が勧めるならいざ知らず、二言目には国家を論じる勉
三に同行しようとする者は皆無だった。南国的風土で、何とか暮らせるので、冒険は不
要に等しかった。株主もほとんどが一族で、他からの応募者は少なかった。その少ない
応募者に石井村(現南伊豆町)の影山増太郎、下小野村の山田要助がいた。
また、影山、山田や大野恒哉の助力で、辛うじて移民者は市ノ瀬、下小野、青野などか
ら十戸、二十三名の応募があった。だが、うち四名は戦力外の子供であった。そのこと
を良く考えると、加納通広の力もあったように思えてならない。(11歳の山田喜平を1戸
とする定説から、9戸を10戸と訂正します)

 勉三は、勝利は数でないとうそぶいた。第一陣とはいえ二十七名だけで、十五年間、
一万町歩を拓くとは論外な数字であった。

 勝にとって二月十日午後二時、豆陽学校での送別会は印象深いものであった。己の離
別に教員、生徒、親友が、高度の詩文大会を催してくれたのだ。蛮カラを通し、決して
良い教師でないと自認していたが、発表された生徒らの詩文は、己を慕ってくれる内容
ばかりであった。
 郡長・大野恒哉も出席してくれ、夜は酒肴の饗応があった。
 勝は、感涙にむせび、
「実に諸君の厚情、謝するに言なかりき」
 と、日記に書いた。
 翌日も宿舎に教員、生徒が押し寄せ、冷酒で別れを惜しんだ。
 五年を過ごした蓮台寺を後にした勝は、一カ月近く大沢に寄留した。米糀やパン、版
木掘り、各所の送別会へ出席した。また、移民の渡航手続き、田方へ出掛けて株金集め
をした。
 三月になると、勉三が東京から買って来た活字で、社則などを印刷した。四ミリほど
の小さな活字も複数並べると、そこから大きな情熱がほとばしり出た。
 まず「晩成社規則」を植字した。
 その緒言、
「北海道の開否は、わが全国の形成上、重大の関係ある所なれば、国民の義務としてそ
の責任を担当せざるべからず。これこの社を起こす所以にして、またわが同胞人民の賛
成を請う所以なり……」
 と、高邁な文脈で始まる。
「第一条 本社営業は十五年間とし、資本金総額を五万円と定め、一株五十円とす。内
金二万五千円は当十五年十二月までに募集し、残り二万五千円は十カ年間募集す。
 第二条 (略)
 第三条 資本金を募り、その使用する方法はすこぶる丁重にして、決して浪費せざる
を旨とす。故に該金は株主の満足する確かなる所に預けおき、該金利子をもって年々開
墾等の諸費にあて、十五年間満期に至れば資本金は各自所有の株券に照らし、総株主へ
ことごとく皆返戻するものとす。(略)
 第四条より第六条(略)
 第七条 収益及び貸付金利子より、その百分の五を積み立て、残金より諸費を引き去
り、純益あらばこれを総株に割り当て、初年より十カ年間は第五条の件に随い株券とな
し、十一年より五カ年間は年々株主へ配分するものとす。
 第八条 第七条の純益割賦のとき、純益は株金の百分の二十 即ち二割以上に至らば、
株主は唯にその二割を取りて満足し、その余はことごとく皆積み立て、第七条の積み立
てと合貯す。しこうしてその積金は社員集議の上、小にしては本社植民のため、学校、
病院、道路費及び救恤等を補助し、大にしては国家の義挙に応じ、本社は国民の義務を
竭さんとして成立するの主意を振張するものとす。
 第九条 前条の積金は本社の振張する義金なれば満期解社のときといえども各自へ配
布するを許さず。しこうして該金は満期に至れば一時に国家のため応分の事業に支消す
るもまた永続して時々の義挙に応ずるも社員の集議に決すべし。
 第十条 株主はなるべく移住して自耕すべしといえども、実際行われがたきを以て農
夫を募集し、小作人となし、株主を地主とす。しこうして満期のとき株主は各自所持の
地所を直轄するもなお本社を永続して収益を社員の集議に決すべし。
 第十一条 本社は反別一万町歩をその筋より願い受け、まず牧場となし人畜繁殖の形
状により漸次に牧場変じて耕地と成すべし。(略)
 第十二条(略)
 第十三条 株主と借地人とを問わず、本社の地所を耕すものは、初耕一年を除き二年
目より地代として収穫品の十分の二を本社へ納むべし。もっとも地租完納するの日に至
りては更にその地租の半額は該耕者より支出すべし。(以下略)
 第十四条、第十五条(略)
 第十六条 耕作者は余力を以て共同して必ず牧畜に労働すべし。本社は年末に至り毎
人に日当なり、あるいは牧草を買い取るなり。便宜に随い金員を支給す。耕作者は該金
を領取支消する等、各自随意たるべしといえどもなるべく本社に入金して、借地人は株
主となり、株主はますます株数を増加するを要す。
 第十七条 耕作者諸器械自費たるは第十六条のごとしといえども渡航の初め自弁する
ことを能わずして二人以上の保証人を立て、本社に貸付を請うときは本社より一時貸与
し、その年末に収穫する耕作品売り代価及び牧畜に付き、労働日当並びに牧草買入れ金
等を以て貸与、諸具の貸賃並びに飯米、塩、味噌及び貸渡し金員の元利を本社へ返納す
べし。もっとも本人の情請によらばその年は貸据え翌年の末、収穫品売り代価を以て納
めしむることあるべし。ただし本社より納付すべき金員割合は左のごとし、
 一、牛馬貸賃 一年に付き原価五分の一(飼料及び舎屋建設は借受人自弁)
 一、器械貸賃 一日に付き原価二百分の一
 一、夜具、炊具貸賃 一日に付き原価三百十六分一
 一、家屋貸賃 一日に付き原価千四百四十分の一
 一、肥料、飯米並びに金員 一日に付き利子金一円に付き四毛一糸〇九五九の割
 第十八条より第二十一条(略)
 第二十二条 耕作者となるときは必ず約定書を本社へ納め、用紙は証券罫紙に認め保
証人を設け連印して将来を契約すべし。その約定書は左の通り、

          約  定  書
 拙者儀 今般貴社の承諾を得、北海道に渡航し貴社御規則を確守し御指図の地所につ
いて力耕、勉強仕りべくは申すに及ばず、貴社より御貸渡しの地所培養相怠らず、決し
て荒蕪ならしめ申し間敷候、かつ拙者身上に付如何様の事故出来候とも貴社の許認を得
て他人へ地所譲渡候まで決して他業に転じまたは該地を相離れ申し間敷候、万一御規則
に背戻する所行これある節は何時御解約相成り候とも決して苦情申し間敷候、その際貴
社より金員または物品拝借これあり候わば速に返納御勘定相立てるべく申し候、もっと
も本人に於て返納いたしがたき節は証人引受け本人同様速かに弁償し毫も貴社へ御損失
は勿論、一切の御迷惑相掛け申し間敷候、後日のため約定証よって件(くだん)のごと
し。
  明治  年 月  日      〇〇府県〇〇郡〇〇町村〇〇番地
                             本 人 〇 〇 〇 〇 印
                             同証人 〇 〇 〇 〇 印
                             同証人 〇 〇 〇 〇 印
   北海道晩成社御中

 第二十三条、第二十四条(略)
 第二十五条 職員はすべて給料なし。ただし社務を理し日子を消過するときは日当を
給し、旅中は日当のほか旅費あるいは滞在費を給す。ただし当初は事務閑隙と視認する
を以て本条のごとしといえども、社運ようやく隆盛に赴き、社運繁忙に至らば社長以下
給料並びに職員の人員、職務等を議定すべし。
  明治十五年一月                  晩  成  社」
 と、活字が並べられた。
 勉三をはじめ一同は、この時代の最高な内容となったと喜んだ。だが、第十六条以下
の条文が現実の北海道へ移した時、人心に深い亀裂が生じようとは知る由もなかった。
 特にインクにまみれた者は、狭い伊豆にいるという意識はなかった。自分たちが日本
を背負うという気概に溢れ、印刷したページを重ね合わせて 紙縒りで綴り、「晩成社規
則」、「同細則」が作られた。