第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目

                           
     第5章 別離の宴(31歳)

 インクにまみれた者たちには、狭い伊豆にいるという意識はなかった。自分たちが、
日本を背負うという 気概で、印刷したページを重ね、紙縒りで綴り「晩成社規則」「同
細則」が作られた。
 そんな折、用事のついでだと、ひょこり伯父の真一が顔を出した。いつもながら機材
を背負う弟子も伴っていた。勉三は即座に陰に隠れ、どこで用意したのか乞食姿の扮
装で現れた。彼の脳裏には、一昨年、広尾の老漁師や、アイヌの人に平身低頭した一
夜が思い出された。まさに「忍耐、乞食のごとし」である。
 それを思うと、
「この乞食姿でも一枚、写真を撮って欲しい」
 と、真一に頼んだ。
 そして、ナマコ壁の藏が並ぶ中庭まで連れ出し、朽ち果てようとする木塀をバックにし
て座った。勝など茶化しながらいろんなポーズをとらせた。だが、彼は真剣な表情で臨ん
だ。
 筵の上に破れ笠、一椀を置き、左足を前に横座り、背中に俵を裂いて掛ける念の入れ
ようであった。 一見して剛毅を装うが、小心と不器用で構成される己の性格を知ってい
た。だから敢えて有言実行、前向きな大言壮語して、自らを皷舞させようとした。この乞
食姿も心の地滑りを起こさぬためのポーズであった。


 明治十六年三月十四日夕刻、大沢では別離の宴が開かれた。
 床の間には、真新しい「規則」、「細則」が積まれ、 魂があるがごとく、別離の宴を
見守っていた。
 一族、親友が正座する中、まず勉三が筆をとった。
   遺却鴻恩又北遊  弟兄相対涙空流
   男児報国知何日  為事人間在黒頭        
                           留別 依 田 帯 水
 と、書いて朗々と吟じた。
「鴻恩を遺却して又北遊す/弟兄相対し涙空しく流る/男児国に報いるを知るは何れの
日か/人間事を為すは黒頭にあり」
 続いて勝が、ふだんの態度に似合わない小文字で、
   斬獅斃鷲何難在  北地張権任我儂
   朝旭迸来雪散日  共看独立玉芙蓉     
                           十勝人 狸    堂
 と、書き終わると、緊張している一座の前へ進み出た。そして、刀を振るい、これを
吟じつつ剣舞した。
「獅を斬り鷲をたおす何の難きかあらん/北地の張権我がともがらに任ぜよ/朝旭ほと
ばしり来って雲散ずるの日/共に看ん独立の玉芙蓉」
 獅はイギリス、鷲はロシアを意味する。北辺の地は我々が防衛するから任せよという
心ほとばしる内容であった。その名も「十勝人狸堂」と、既に心は十勝人であった。
 佐二平は、勝の剣舞に負けじと、深く呼吸を整え、筆に十分墨を吸わせた。勉三と同
韻で、 
   欲報邦恩決北遊  辛酸常楽我家流
   此行元是雖可賀  離恨猶在落日頭      
                           送別 石 泉 堂 主 人
「邦恩を報ぜんと欲して北遊を決す/辛酸常に楽しむは我が家の流/この行元よりこれ
賀すべしと雖も/離恨なお在す落日の頭(ほとり)」
 と書き、吟じた。
 共に七言絶句の格調高い漢詩であった。

 だが、意気軒高な男たちの陰で、リクは三歳の俊助を抱いて泣いた。親との別れを知
ってか、火がついたように子も泣いた。
 それより前、リクは吾子が不憫で、
「俊助を連れて行って……」
 と、必死に頼むが、勉三は頑として聞かなかった。
「今は手足まといになる。もっと大きく、丈夫に育ってから呼び寄せよう。お前もタン
スは持つな」
 と、少しも女心を理解しなかった。
 翌十五日、佐二平は所要があり不在だった。勉三はその日大沢を発ち、松崎まで行く
予定であった。
 あいにく昼より雨となり、土の道はゆるんだ。大勢の者は、今日は松崎へ行くのは無
理だと考えた。
 勉三は、雨のスクリーンに広漠な十勝野に作物がたわわに穂波をうつ幻影を見た。昨
夏、銃太郎と見た十勝平原の運気を思い浮かべ、上気した。無限の可能性を秘めた魅惑
が、「早く来い」と 手招きしているように感じた。真に己の一生を賭けるに値すると信
じた。
 一方、女たちは未練の涙雨として、一秒一刻でも多く大沢に留まりたかった。リクを
中心として、涙で袖を濡らした。
 勉三も、その女たちの心が分からなくはなかったが、午後五時をタイムリミットと考
えた。店口の大きな柱時計が、五つ打った。
 勉三は、一悶着したあと、無表情な操り人形のごとく玄関の敷居をまたいだ。雨もい
とわず、傘は不要と、ひとり一歩、二歩と歩幅を大きくするのだった。
 勝を含めた連れ添う者たちは、ぬかるむ道を嫌って、川舟で松崎へ下ることにした。
女たちは家の前から、勝や佐二平の子新四郎、勉三の弟渡辺要、のち共に十勝で働く樋
口父子は、しばらく歩いて峰輪から舟に乗った。
 女ばかりの舟の中では、リクが老母みなの懐にうずくまっていた。橘紋の番傘を他者
がかざすが、雨は舟が揺れにリクの体を濡らし、その背中を痙攣させた。泣きじゃくる
それに、のち勉三の日記にある「宿痾」の予兆が襲い、心臓に痛みを覚えた。

 そして、先刻の俊助との別れの場面が頭いっぱいに広がった。
「俊助をせめて松崎まで、抱かせて、行かせて……」
 と、リクは頼むが、勉三は、
「連れ続けるだけ、未練がつのるというものだ。それにこの雨だ。ただでさえ、ひ弱な
俊助ではないか。風邪でもひかせたら大変だ。義姉(ねえ)さんに任せるのだ」
 と、強く拒んだ。そして、リクの胸から俊助を奪い、義姉ふじに渡した。
 俊助は、
「おかあさーん」
 と、悲痛な声を上げた。
 三者の間に挟まれた、ふじの心は揺れた。晴れの門出の玄関先で、押し問答してはな
らないと、俊助を横抱えして、なまこ壁の蔵の方角へ走った。
「リクは良しとしても、何故に罪もない、この子が犠牲になるのか」
 と、ふじの胸は圧し潰された。
 リクは、俊助を追おうした。だが、勉三はその襟元をつかんで、くぐり戸の外に押し
出した。
 そして、勉三は後ろを振り向かず、松崎へと歩きだしたのだった。彼とてわが子が憎
かろうはずもない。雨と涙が両頬を濡らしたが、それを拭おうともせず歩るき続けた。
 川舟の者たちは、午後九時、塗り屋に着いた。
 勉三は、既に「塗り屋」に二時間ほど前に着き、リクの父善兵衛や善六と談笑してい
た。リクがみなに抱えられて入って来た。その顔の青さを勉三は一瞬気にしたが、すぐ
にふだんの話ぶりに返った。
 その夜も、別れの宴が開かれた。
 夜半より風雨が強くなった。どこの土地にも雲行きで天気を占う名人がいる。
「明日の出発は無理だ」
 と、断言した。
 しかし、勉三は、
「この悪天候は長く続くはずがない。小雨決行としたい」
 と、言い張った。
 リクを思いやる善兵衛、みなの親心を察した善六は、
「勉三君、大器晩成を旨とする晩成社ではないか。無理に一日を速めたとて意味あるこ
とと思えぬ。周囲に気配りして、判断をするのが責任者の役目ではないか。晩成社社長
の私の命令だ。心落ち着けて、日和を待つがいい」
 と、言った。
 勉三は、兄佐二平と同じことを言われたような気がした。頬をふくらませながら、そ
れに応じることにした。
 気を変え、飲めば強い勉三の酒である。志や雰囲気に酔いやすい勝らと酌み交わし、
北海道を、伊豆を語り、闘詩をして夜が更けた。
 予言どおり翌日も雨であった。
 遅くまで寝て、また盃が酌み交わされた。三余塾の同僚らも集まって来た。三十歳を
中軸とした者たちで、地域を担う自信がその顔に充満していた。師三余が蒔いた種が、
着実に生育し、開花の時期を迎えた期と、勉三は実感した。
 なかでも、江奈の石田房吉は、
「貴様の北海道が、俺の太平洋だ。北海道よりずうっと大きいぞ」
 と、胸を張った。
 彼は、依田一族の娘と結婚し、江奈漁業組合を作って活躍していた。昼中でも星が見
えるという稲葉半七が発見した魚礁・銭洲(ぜねず)を一大漁場にするため、三宅島や
神津島と交渉すると息巻いていた。やがて国鉄総裁となる石田礼助は彼の息子である。
 ようやく十七日は晴天となった。
 いよいよ出発の時到来と、勉三は朝食の一粒一粒を噛みしめた。北海道でもこのよう
な米を作るのだと心に誓った。そして、草鞋の緒を強く結んだ。
 リクも二晩を実家で過ごしたことで、頬に血の気を戻していた。
 あれほど盃を重ねても、男たちは玄関先で離杯を交わした。勝は「渭城の曲」を一気
に書き上げ、それを声も高く吟じた。その余韻に随い、数十人は列を組んで進んだ。
 出発したのは昼過ぎで、外部(そとぶ)を経て、築出(つんだし)まで歩いた。この
路上でも酒が酌まれ、吟じ合い、ここで別れる者もいたが、なおも列をなした。
 その時、勉三と勝は、深酔いをして路溝にはまるという醜態を演じた。
 リクは、男の身勝手さを嘲笑し、駕籠に乗って先を行った。やがて勉三は足元が覚束
無くなり、駕籠を頼む体たらくとなった。
 勝と、勉三の弟要、唯四郎は歩いて宮ケ原に着いた。すでに駕籠で来た善兵衛、新四
郎はそこにいた。
 困ったことに、既にリクは猫越峠に向かっていた。それを村人に追わせて連れ戻し、
同宿するのだった。なお、この日も一緒に泊まる者がいた。
 十八日朝、最後の見送りの者と別れる峠で、郷里の碧い海も見納めだと、リクは涙ぐ
んだ。そして、
「どうか、俊助をお頼み申します」
 と、駿河の海と富士山に深々頭を下げた。
 勉三は、リクに駕籠を許さなかった。知人と別れれば主導権は己にある。歩き慣れな
いリクの足は、マメが出来ては潰れ、潰れてはまた膨らんだ。
 勉三は、雨と酒の空白日時を埋めようと、その歩幅を大きくした。泣きそうに佇むリ
クを激励し、その手を引こうとしなかった。
 勝はこの中間にいて、この夫婦の結末はと気を揉んだ。離れ過ぎる勉三を、時に呼び
止めなければ、ひとり北海道へ突っ走る勢いであった。
 猫越峠を経て、十八日修善寺、十九日箱根、二十日は雨で馬車が出ないため小田原に
泊まった。二十一日午前六時半、小田原駅より馬車に乗り、午後三時、横浜の鈴木真一
の家に到着した。夜には洋食の接待を受けた。

 なお、頼母の「沼津駅に知友依田勉三君を送る」という漢詩がある。だが、一行は
沼津に寄ってはいない。これは事前に想定しての作品であろう。
    甚喜君送別  甚だ君の送別を喜べど
    三百里余程  三百里余程あり
    分袂時願語  袂を分かつ時にあたり語を願われしも
    如何南北情  南北の情を如何せん
                      沼津駅留依田生 酔 月 処 士
                             
 また、真一の妻未遠子は、頼母の妹である。彼女から頼母が現在、日光東照宮の祢宜
に、元藩主・松平容保も同所宮司に就任していると聞いた。犬猿の仲という間柄に 師を
思って勉三は複雑な気持ちにさせられた。そして、松崎で一緒に遊んだあの吉十郎が四
年前に亡くなったこと。のち柔道姿三四郎のモデルになる志田四郎の養子話があるとも
聞いた。
 翌二十二日、昼食を済ませると、勉三、リク、勝は、二百十二番女学校にカネを訪れ
た。
 勉三夫妻は、勝とカネの媒酌人の立場にあった。だが、学校へ着くと、カネは外出し
て不在で、仕方なく真一の家に戻った。
 そこにはカネが待っていて、慇懃に、
「校用がありますので、土曜日に再び参ります」
 と、余分の言葉を添えずに去った。リクは処女の恥じらいと感じたが、何か冷たいも
のを覚え、これが信仰の近代女性かと思った。  
 横浜での勉三は忙しかった。上京しては渡航願書を農商務省へ提出したり、農機具購
入のため、横浜・東京間を幾度と往復した。
 勝も社務と同時に、自らの結婚式の準備をしなければならなかった。そのため上京し
てワッデルに会い、その家に泊まった。
 二十六日、勉三もワッデル夫人の手料理をご馳走になり、勝と共にカネの父・親長を
訪ねようとした。すると門を出たところで、親長に出会った。勉三は、思い出したよう
に農商務省へ返事をもらいに行くと、ひとり出掛けた。
 勝と親長は、友人宅を借り、結婚式についての相談をし、十勝にいる銃太郎の妻のこ
とも、何人かの候補を挙げて話し合った。もし、この時、銃太郎に妻が決定したら、の
ちの晩成社の運命は、違ったものになっていたかも知れない。
 農商務省より帰った勉三は、不機嫌だった。政府は北海道行き渡航費を一銭なりとも
補助しないというのだ。あれほど移民を奨励しながら……と、悔しがった。ややして気
を取り戻し、その旨を晩成社伊豆出張所へ手紙にした。また、伊豆の移民者に、直ちに
横浜へ集合するよう命じた。
 勉三は、渡航費の出ない後遺症について心配した。あれほど順を追い、書式に則って
願書を提出したのである。それが何の効果もなく却下されたのだ。有力者の後援がない
と許可しない、この国の悪癖を思った。ケプロンに何を言われても仕方がない、成長し
ない国家を恨んだ。
 だがと、勉三は思う。ここで躊躇すれば、恥の上塗りしかならない。お上の同じ穴の
狢(むじな)になってはならないと、気を取り戻すのだった。それに銃太郎は、今や遅
しと、十勝の地で鶴首しているのだ。
 伊豆より移民者たちは三三五五と集まって来た。勝もその度に、渡航費が出ないこと
を説明した。自費の渡航となるが、誰も北海道へ行けば広大な地主になれると信じて、
拒む者はなかった。

 四月六日、移民団全員が横浜に集結した。
 リクがその顔触れを見て、驚きの声を上げそうになった。十三歳の山本金蔵は許せる
にしても、十一歳、六歳、四歳、それに二歳の乳飲み子までが含まれていたのだ。あれ
ほど「俊助を連れるな」と拒みながら、他人の子なら許す夫の心根を、生理的に許せな
いのだった。 
 だが、ここに至って伊豆に戻る訳にいかない。あれほど反対された結婚も、己の決断
によってこの男と結ばれたのだ。
 ここで離縁しようものなら、
「世間知らずのお嬢」
 と、笑い者になる。年老いた両親、兄善六の顔に泥を塗る結果になるのだ。我を捏ね
て勉三と引き返せば、
「長者の坊やの出来心」
 と、ふたりして世間の謗りは免れない。やがては似た者同士、北海道に骨を埋めたく
なるリクであった。
 勉三は、そんなことを考える余裕はなかった。銃太郎の待つ十勝に早く渡らなければ
ならないのだ。
 勉三の脳裏には、一昨年、広尾の老漁師やアイヌの人に平身低頭した一夜が思い出さ
れた。まさに忍耐、乞食のごとしである。
 それを思うと、
「乞食姿でも一枚、写真を撮って欲しい」
 と、真一に頼んだ。
 もとよりスタジオにその用意がはずもない。波止場の倉庫へ行って、俵、藁筵を集め
て来た。(伊豆で撮影したという説もある)
 筵の上に破れ笠、一椀を置き、勉三は左足を前に横座り、背中に俵を裂いて掛ける念
の入れようであった。
 勿論、移民団全員、リクとのツーショットも撮った。
 勉三は一見して剛毅を装うが、小心と不器用で構成される己の性格を知っていた。だ
から敢えて有言実行、前向きな大言壮語して、自らを皷舞させようとした。この乞食姿
も心の地滑りを起こさぬためのポーズであった。
 四月九日、渡辺勝と鈴木カネの結婚式が、二百十二番女学校で挙げられた。明日が出
立の日、勉三夫妻が媒酌、司会は稲垣牧師が勤めた。
 なお、これより以前、勝は、北海道に渡るに先立ち、己の花嫁募集した。郷里の名古
屋、伊豆、横浜、東京と八方手を尽くしたが、熊の出る未開の地を志望する女性はいな
かった。そんな折、銃太郎の妹カネが、父と渡道すると聞き及んで、勉三が仲人をかっ
てでたのだった。 
 会場の二百十二番女学校はミッションスクールで、承知のようにカネの母校である。
明治四年開校の日本初の女学校という由緒ある学校であった。校長はアメリカ人クロス
ビーで、ピアソン女史らが教えた。
 恩師ワッデルはじめ百余人が出席、盛大な祝福を受けた。
 カネは、その頃にしては晩婚で、二十五歳の花嫁であった。勝は二十九歳になってい
た。ちなみに、媒酌人の勉三は三十一歳、リク二十二歳であった。
 カネが北海道開拓を望んだのは、父、兄の感化もあるが、二百十二番女学校のピアソ
ン女史ら女教師が、遠く母国を離れての赴任に、感動したからであった。それも生麦事
件のあった目と鼻の先の横浜、まだ暴動、暗殺、外国人排斥運動のある時代であった。
 カネは、
「北海道は未開の地とはいえ、国内ではないか」
 と、自らを奮い立たせ、決意したのだった。
 挙式のあとは、勝が日記に「清話豪遊」と表現するほど、晩餐も盛会であった。十時
散会、勝はワッデルを駅に送り、十一時半に真一の家に帰った。カネは別宅に泊まった
ので肌を合わさぬ初夜となった。
 いよいよ出発の四月十日の朝が来た。幸い太陽はまぶしいほど輝いていた。
 勉三や勝が、未整理の社務に没頭しているところへ、カネ、親長らも来て出発の準備
を手伝った。そして、離別の盃を酌み交わし、午後五時、一行は波止場へ向かった。
 波止場から一同は艀に乗り、汽船「高砂丸」に移ったが、これにカネ、親長の姿はな
かった。カネと親長は身辺整理を終え、勉三の末弟文三郎と三名で十勝へ向かう手筈に
なっていた。
 勝は、何度も振り返り、目線を艀のカネに浴びせた。蛮カラを自他とも許す彼も、別
れは切ないものであった。
 午後六時、汽笛が低く響いて、煙をはく船は出港した。やがて夜半より雨となった。
伊豆よりは勉三夫妻、勝ら二十六名、東京から一名加わり、総勢二十七名であった。
 勉三は「海波は起こらず、四望の景色は最も佳なり」と、前途洋々たる幸先を思い、
日記にした。
 翌十一日午前も雨であったが、勝は風に吹かれようと甲板を散歩した。カネへの熱い
思いが風雨に当たって爽快となった。そして、雨を除けた場所で日記を書こうとカバン
を開いた。そこにはいつ入れたか見慣れぬ封書があり、手に取るとそれは愛しい新妻の
筆跡であった。
「離ればなれになるのは苦痛だが、心は互いに結び付いて、やがて再会したい」
 という賛美歌の一節が、なめらかな英文で書かれていた。
 無骨者で知られる勝も、
「愛妻の書したる詩なり。読んで離情を発する切なり。朝食をなす。正午船、岩城路に
入る。天晴れて風静かなり」
 と、書いた。雨は午後には止んで快適な船旅となった。
 翌日は再び雨となり、またやんだ。
 四月十四日午前十一時、波は高いが、雨上がりの函館に入港した。