第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目


    第7章 帯広は不毛の地か(31歳)

 一同は、帯広に着けば何とかなると、命がけで歩いて来た。だが、そこは鬱蒼とした
柏の原生林と、草原だけの殺風景な場所であった。
 五月も中旬になろうというに、この寒さ。どこから鍬を降ろせばいいのか分からない
広大な土地は、ただ気持ちが朦朧となるだけであった。地主になるのだと、はるばる伊
豆からやって来たが、異質な土地をどう手なづけたらいいか、ただ途方に暮れるばかり
だった。それでも銃太郎の蒔いた種が、緑色の芽を伸ばしているのが救いであった。
 リクの頬は、げっそりと肉がそげ落ちていた。百姓女に負けまいと歩き続けて来た。
そして、夫の夢見る帯広に着けば、暖かい布団で疲れが癒されると信じていた。だが、
伊豆から送った荷物は到着しておらず、茶をすすった後は住まい作りに駆り出された。
アイヌの小屋は、買い入れただけで用をなさない。俵や蓙を敷いて床に、柳の皮をはい
では水に浸して縄にし、それを結んで応急的修繕をしなければならなかった。
 新しい住宅は、枝の二股を上に、丸太を六十センチほど地中に埋めた。梁も丸太で、
それを骨組みにした。屋根と四壁は茅でふき、囲った。かまどは小屋の中央に、縦一メ
ートル半、幅一メートルの大炉であった。ここで終日火を炊き、暖をとり、煮炊きをし
た。 
 後日談だが、住居について触れよう。
 銃太郎、カネの母ナオは家つき娘で、親長は婿養子として迎えられた。彼女は御殿勤
めをした関係からか、草深い田舎を好まなかった。夫や子供が帯広に入地しても東京に
住まい続けた。八、九年を経たころ、一度だけ帯広を訪れたことがあった。
 そのころの勝、カネ夫妻の家は、掘っ建て小屋でなく、屋根と周囲は茅だが一応は普
通の家の形をなしていた。
 だが、ナオは、
「小屋など後回しでよいから、早く本屋(おく)へ案内しなさい」
 と、命令口調で言った。
 カネは、
「これが嘘も隠しもない、本屋ですよ」
 と、答えると、ナオは今にも泣き出しそうになったという。
 なお、明治天皇崩御の時、学習院長乃木稀典は自刃するが、その折、同院教育主事を
していたのが松井安三郎で、親長、ナオの三男、教育界に名を馳せた人物である。

 勉三は、到着の翌日から、全員が揃わなくても開墾を命じた。銃太郎が使った一本の
鍬で、順番に草の浅い個所から振り降ろした。見かけはやさしい草原を思わせたが、鍬
を容易に受けつけようとしなかった。太古からの草根は、幾層にも絡まりあっているの
だ。でも、
根からの百姓は鍬を要領よく使い、即座に美しい土肌をのぞかせた。
 勉三は、これに負けじとするのだが、たちまち汗が流れ、腰がふらついた。
 また、十勝原野は火山灰地であると文献からも学んでいた。だからたやすく拓けると
思ったのだが、間違いであることに気づいた。人類未到の地と、三余塾などで実習した
伝来の土とは、違って当然なのだと改めて実感した。
 勉三は、力いっぱい鍬を大地に打ちすえた。それを強引に抜こうとすると、柄はたち
まち抜けた。すべての道具は、それをてなづけながら作業するのがコツなのだが、彼の
性急さは柄の栓を緩め、使いものにならなくした。そして、皆に助けを借りて直し、即
座に手にマメが出来、今さらに己の不器用さを思い知らされた。
 これでは一万町歩の開拓は何年かかるのか、勉三は草原のかすむ涯てを見やり、太い
息をした。だが、それを顔色に表さないのが、彼の才能であった。
 勉三は、晩成社副社長、現地業務担当社員の肩書を持っていた。現場と事務の仕事が
あり、心身を休めることはなかった。なお、勝と銃太郎は晩成社幹事の資格であった。
 十一日、勉三は大津戸長に移民団到着報告と、今後のことを相談するため川舟を雇っ
た。なかなか顔を見せない勝と銃太郎に業を煮やし、会いたいこともあった。
 その舟旅の途中、勝、銃太郎や残りの者が乗った川舟に出会った。互いの舟縁を合わ
せ、顔を見詰め、互いの無事を喜ぶのだった。しかし、舟上のため長時間を費やす訳に
いかなかった。
 十四日午後三時、勝や銃太郎らは帯広へ着いた。
 一方、勉三は、十二日に戸長役場で早急に用務を済ませ、勝らよりわずか一時間遅れ
で帯広へ戻った。
 気をもんだF夫婦も二十日には着き、全員がここに出揃った。

 アイヌの人たちは、略奪を繰り返す和人を警戒していたが、昨年来居残った銃太郎へ
の好印象もあって、晩成社の人間に近づき始めていた。
 明治十六年六月三日午前、勉三、勝、銃太郎の三幹部は、近在一帯の酋長モチャロク
の家を借り、アイヌの人たちを招いた。親睦のしるしに酒一樽を贈り、もてなした。
 早速に鹿の角集めの野火は、晩成社の開拓を脅かした。だが逆に、晩成社の開墾の火
も、入地早々アイヌの倉庫を焼いた。
 その時は米一斗と、勉三個人として酒一樽を贈って詫びた。だから、勉三と酋長は二
度目の会見であった。
 酋長は、気の良さそうな社員を見て、心を許す気になっていた。特に銃太郎には、娘
コカトアンが日本語を習い、嬉しそうに話すのでこと更であった。そして、酋長は自ら
造った酒を幹部に進めて歓待した。
 この時、晩成社側は、
「社員もまたこの地の住人となった以上、互いに親睦を旨に一村落をなし、業務に励み
たい。農業に対し心ある者には、我々が懇切に手ほどきするので、作物の種が欲しけれ
ば差し上げたい」
 と、申し出れば酋長は大いに喜び、一族を集め、酒宴は共存共栄を誓う会となった。
 午後、今度は移住者全員を、勉三が自宅に招いた。ここでも酒一樽を開き、慰安会と
なった。一同は命あって到着したことを喜び、ここに至る道中の大変を語り尽くした。
快飲、歓を尽くし、赤く染まる太陽が日高山脈に隠れるころ散会した。
 このように一同に笑顔が戻れば、開墾の先行きは順風満帆だと思えた。
 その翌日から草原に出たそれぞれの顔は、精気がみなぎっていた。中でも三幹部は、
処女地の土くれを一鍬しては握り、子供のように眺めて喜んだ。
 勉三は、可憐な福寿草を見て、
「万作や鍬をどこから降ろそうか」
 などと詠み、福寿草を万作(豊作)に見立ててはしゃいだ。また、自生すずらんが蕾
をもとうとする個所もあって、やがて一大農地になることを確信した。
 晩成社は、各戸単位で開墾し、労賃を支払って一時的に社有とする方策をとった。や
がて耕作者に余力が生じた時、自作農となるのである。
 まずは、自給と技術習得のため、全員で作業に入った。横一列に並んで鍬が打ち降ろ
された。
 剣術の達人といわれた勝は、ややすると全身から汗を噴き出させた。彼は豆陽学校時
代、「糞尿先生」の 異名をとり、農業の経験があった。また、那賀の土屋準次(三余の
嫡子・善六弟)から手ほどきを受けていたので、己は 一人前の百姓だと思っていた。だ
が、それは職業として鍬を振るうのと違っていた。腰がふらつき、掌にマメを作り、尻
餅をつき、一番先に音を上げた。  
 日頃より鍬に馴れた者は、勝に、
「偉そうなことばかり言って、口ほどでもねえ、腰抜けだノー。ハハハ」
 と、大声で笑った。
 道中、勝から、
「伊豆の百姓は、しっ腰ない」
 と、言われ続けたので、嘲笑となるのだ。
 勉三も、過日の経験を活かしたが、それでも女衆に及ばなかった。
 銃太郎は、昨年からの体験もあり、持って生まれた頑強な体から、息を上げないで前
へと進んだ。それでも本職の百姓には到底かなわなかった。
 勝など関節や筋肉が痛み、手のマメで、一日仕事、二日休むのだった。
 また、リクは、小手先だけであるが小鎌を振るった。その姿は美しくハタキをかける
新妻風情であった。彼女は開拓の礎になっているとの満足感があった。また、勉三は、
開拓女房への努力と感じ、うれしく見た。だが、他者はそれを見て苦笑した。
 ああ、十勝野は余りにも広すぎる。伊豆の猫の額ほどの田畑を不満に思っての移民だ
が、逆に涯しない広さは苦痛を与えた。いかに鍬を上下させても、成果が見えてこない
のだ。

 開墾の難事の始まりは、野火であった。先に開墾の火がアイヌの倉庫を焼いたことを
書いたが、今度は被害が飛び火して来た。
 当時、鹿の角は高価で売れた。一穫千金をたくらむ内地の連中が北海道に集中しだし
た。銭金になれば罪悪感をも捨て去る輩には、他人の迷惑など見えはしない。野火は各
所から放たれ、連日煙が立ちのぼった。
 ある日の野火は、昼過ぎより南方に黒煙を上げた。みるみる風に煽られて近づき、夕
闇迫るころ、晩成社の住居に危険を感じるまでになった。動物たちは火を間近にすると
狂気となった。真昼のような明るさの中、日の丸を持ち出して走りだす社員も現れ、狐
や兎がひとに体当たりした。 
 誰かが、
「こちらから、火を放つのだ!」
 と、叫んだ。
 内側から火をつけ、生木の枝葉で外側へ向かって煽れば、火は近づかないという逆療
法なのだ。その一声によって、間一髪救われた。
 しかし、せっかく拓いた畑に芽を出した作物が、焼かれたのではたまったものではな
い。社員の大半は呆然自失の状態となった。勉三とて腹の煮えくり返る憤りを覚えた。
だが、瞬時眉をひそめただけで、皆には弱音を吐かなかった。己が弱気になれば不安を
波打たせ、崩壊につながるのだ。 
 勉三は、不退転の気概を示すため「郵便局設置御願」を六月十三日付で、また、九月
二十日「道路開削御願」を札幌県令に提出した。
 道路がないのは開拓事業にとって致命的なことであった。川舟に頼っていては作物の
値が運賃に相殺され、くたびれ儲けとなるだけだ。
 七月に入ると、再び社員の不満が噴き出した。
 野火の被害も続いが、今度は蚊、ブヨ、虻に悩まされた。帯広は内陸性気候で、夏の
気温は相当高い。その暑さの中、布で全身を覆い、顔は蚊帳の切れ端でかぶせ、覗くよ
うな作業では、能率の上がるはずもなかった。
 可哀想なのは背負われた子で、苦しがって悲鳴を上げ、泣き疲れて眠るのだった。
 また、家に入るのも大変で、蓬の葉などで衣類に付着した虫を、払い落としてから滑
り込んだ。毒性も強く、刺された個所は腫れ、寝付かれないほどの痒みとなった。その
揚げ句、高熱を発して震えだすのだった。
 七月四日、社員の中から、
「この帯広は開拓に不向きだ。もし働けというなら、生計の目安がつくまで米、味噌を
無償で与えるべきだ」
 と、いう声が上がり始めた。
 七月三十一日、ついにFら三戸、四名は不貞腐れて野良に出なかった。
 そこで三幹部は、彼らの説得に当たった。これ以上の戦力の低下は開墾に差し障り、
一同の心理に悪影響を及ぼし、強いては晩成社存続にかかわる重大事と感じたからだ。
 勉三がFの家を訪ねた時、四名は相談の真っ最中だった。
 勉三は、
「君たち、何をしてるんだ。みんな野良に出て働いている。夏は短い。雪が降る前に少
しでも畑を広くしようではないか」
 と言えば、ふだん無口なFは、
「副社長、いや、勉三さんよ、ええ所に連れてくって言ってくれたが、こんな所ちっと
もええ所じゃねえや。伊豆の暮らしもくさくさしたが、これほどじゃなかった。作物が
穫れそうもない仕事なんか、する気になんねえ。帰りてえ、帰らしてくれないか」
 と、凄んだ。
 女房も、
「おらあ、船で函館へ降りた時、四月半ばであの寒さ。一冬も耐えられねえと思って、
すら(仮病)を使っても逃げる算段してたんさ。でもな近所、親戚から餞別をもらって
来たてまえ、こんな遠く来たんだから様子だけみんべえと、来たんだが、このざまだ。
ちっとも仕事ははかどらねえし、野火に、蚊やブヨにくっつかれて、ここは地獄だ。浪
花節も村芝居もこねえ。こんなとこで死ぬのはまっぴら御免だ。貧乏な伊豆よりずうっ
と悪い……」
 と、最後は涙声で訴えた。
 勉三は、適切な言葉を見つけ出せず、
「良い山、広い平原、きれいな川もある。それに林には薪になる木がたくさんある。我
慢だ。辛抱は必ず報われる」
 と、答えた。
「そんなもん、どこにもあらあ。珍しくも何ともねえや」
「広い土地がある。拓けば、何だって出来る最高の土地だ。やがて大地主になれる」
「それは開墾がたやすく出来て、作物が出来ての話づら。こんなこんじゃ飢え死にだ。
寒さに凍え、それに蚊、ブヨ、虻に血を吸われ、野火にあぶられ、熊に食われる。幾ら
命があっても足りるもんじゃねえ。命あっての物種だ。おらはいやだ。こんな寂しい所
に一日たりともいられねえ」
「待ってくれ。東京も大阪もな、天が造ったものではない、人間が造ったものだ。ここ
に互いの東京を造ろうではないか。国家のために努力するのが国民の義務ではないか」
「あんたは、いつもそんな絵空事、ホラばっかり吹いて、おらを騙す。国家を思っても
今日が食えなきゃ、死神の餌食よ。食えない百姓じゃあ、どうしょうもねえ」
「石の上にも三年という諺がある。草原に三年座れば、尻の温もりで必ず作物が出来る
ようになる。君たちだけ忍耐を強いるのではない。儂らもそれ以上の我慢をする。そし
て一日も早く、この土地に適した作物を捜し出す」
 と、すれ違う問答が繰り返された。
 しかし、翌朝、四名ともどこかへ姿を消してしまった。
 残された者は動揺を隠せなかった。本音のところは一緒に逃げ出したかった。これら
の世帯は、子供と老人を抱えるものばかりであった。また、伊豆へたどりつく旅費もな
く、再びあの険路をと思うと、身がすくんだ。あのような難儀してまで伊豆へ戻れない
人たちであった。
 次の災難は、バッタの大襲来だった。開拓の始めは道路と用排水路をまず造らなけれ
ば耕地とならない。
 八月四日、一同はそのための作業をしていた。その時である。昼が夜に急変し、薄曇
りの空からにわかに大粒の霰(あられ)が激しく降り落ちた感じた。だが、顔面に激突
したものをつかむと、大きなバッタだった。   
 勝は、
「八月四日 曇。蝗虫(バッタ)至る。その数、幾百万かを知らず。天ために暗く、地た
めに赤し。草および畑物を食し尽せり」
 なおこの時、カネはいないが、翌年の体験を、
「灼けつくような青空が、急に暗くなったので、思わず仕事の手を休めて見上げている
と、ポタリポタリと赤いものが降って来ました。見ると、胴体が大人の人差し指大のバ
ッタです。それがたちまち雪でも降るように天地を覆い尽くしました。その幾万とも知
れぬバッタが、まるで夕立のような物凄い音をたてて、野といわず畑といわず、地上の
あらゆる一切の青草を餌食にしてしまいました。そのためせっかく丹精した農作物はも
ちろん、帯広平原が 一朝にして荒涼たる焼野原同様の姿になりました。《それ、バッタ
の襲来だ》と言えば、何はさておいても、みな争って麦、粟、きびなどの刈入れに必死
になり、それを小屋へ仕舞い込みました。ところがバッタは屋内まで侵入して、それを
食い尽くすばかりでなく、藁、紙、着物まで食い荒らしました。その上、一番困ったこ
とは、便所の中まで闖入して不浄の藁や紙をむさぼり、その足で屋内を飛び回ることで
した。最初の年は鉄砲で撃ったり、空缶や金だらいを叩いて脅かしましたが、鳥や雀の
ようにはいかず、全く手のつけようがありませんでした。これが入地早々、二カ年も続
いたため、移民一同は茫然自失の態で、離反の心を抱く者が増え、これを慰留するに手
を焼く始末でした」
 と、懐述する。 
 続いて、勉三は、
「……聞く。この十勝より出でたるバッタは、日高の連山を越え、百数十里を隔てたる
函館県下へ飛翔したれば、その筋にては痛く心を悩まされ、一匹何金ほどかにて買い上
げられたりと。かかる翼の強き虫ならば、由々しき大事にも至るべしと思い、身の毛も
よだつばかりなり。されど北海道は未だ狭ければ飢餓にも至らず、ただ日高の農家は嘆
きて業を転ぜんなど、迷いたるばかりにて事済みたるは幸いというべし」
 と、日記に書いている。
 現実に晩成社耕地が荒らされているのに、他地を思いやるあたり、勉三らしいところ
である。
 だが、作物が全滅するほど、百姓の意志を消沈させるものはない。すぐさま社員は勉
三のもとへ集まった。Fらが去った直後なので必死だった。
「もう俺らあ、我慢なんねえ。このざまじゃ、耐えれって言ったて、無理だ。伊豆へ全
員退却すべきだ」
 と、詰め寄った。
「バッタだって何時までもいやあせぬ。駆除法は今に見つかる。現に十勝の奥地に産卵
場所が探しに出発したと聞く。役所が腰を上げれば、今に何とか解決する」
 と、勉三は平然を装うが、腹の中ではいささか計算違いを認めていた。
 また、九月中旬にもバッタの襲来があり、勝と銃太郎を各地へ視察に行かせた。
 次ぎに追い打ちをかけたのは、長雨、旱魃、野兎の被害であった。
 それが終わると今度は霜害で、九月十日初霜、二十五日激霜となった。そして、こと
ごとく野菜類は枯れ死にして仕舞うのだった。その中でわずかに収穫したのは、瓜類と
小豆のみで、根菜も枝葉を損なってさんざんだった。
 また、九月二十六日、遠山が冠雪した。雪を見ると震え上がるのが伊豆の社員で、南
国育ちは寒さが最大の敵であった。一同が住む小屋は、隙間から舞い込む粉雪で布団か
ら出る顔を化粧させた。
 来る年に明るさの見えない、絶望の地での越冬は苦痛そのものであった。
 それに、夏より得体の知れない高熱の奇病に悩まされた。また、勝の日記に「気分悪
敷」「熱出るを以て臥す」の文字が並ぶようになる。

 それを救う救世主が十月十七日、帯広の地に舞い降りた。カネと、その父鈴木親長、
そして勉三の弟文三郎であった。もし、カネの愛、親長の年長者としての重しが注入さ
れなければ、晩成社は即座に壊滅していたかも知れない。
 勝は、元気を装って新妻カネを迎え入れた。そして夜更けまで食べ、談笑した。あの
船上で読んだ「And hope to meet again」を、改めて熱く味わうのだった。
 そんな日がしばらく続くが、勝は発熱し、寒気がすると、布団を頭からかぶって震え
出した。カネが心配そうに覗くと、夏以来の症状だという。
 カネが、ワッデルに渡道の挨拶に行った時、マラリアという病気があると教わった。
「蚊が媒介する病気で、日本名ではオコリと言います。初め悪寒があり、次に高熱が出
ます。未開地は蚊が多いと思われますから、たぶん北海道にもこの病気はあると思いま
す。それにはキニーネという薬が効きます。これは分量、用法を間違えると心臓に悪影
響を与え、一命にかかわる、劇薬です。ですから、細心の注意して与えてください」
 と、ワッデルは言った。
 カネも、医術を少し女学校で学んだこともあり、症状からオコリだと確信した。だが
数日しか床を共にしない夫に、この劇薬を服用させることに大いなる勇気がいた。
 医者は大津まで行けばいるが、患者を連れて行くにしても、医者を呼ぶにしても容易
なことではないのだ。
 思案にくれた彼女は、夫に、
「あなた、ワッデル先生にもらったお薬があるの。解熱には最高の薬だそうよ。でも、
強い薬ですって。命にもかかわる……」
「ウウ苦しい、その薬を飲ませてくれ。晩成社の多くの者も苦しんでいる。それが効け
ば《伊豆へ帰りたい病》も治るかも知れない。俺を実験台にしてくれ。お前は十勝のジ
ェンナー博士になれ。お前が飲ませてくれるのだ。万に一があってなるものか。主が見
守ってくれるはずだ」
 と、勝は言った。
 そして、彼女が煎じたものを一気に腹の底へ流し入れた。再び勝が眼を覚ました時、
熱が下がり、頭はすっきりしていた。
 これより確信を持った彼女は、次々に苦しむ社員を救った。

 また、勉三は入地早々カネに、社員とアイヌの子の教育を依頼した。彼女は喜んでそ
れを引き受けた。そして、農事も家事も手抜きしないで、夜や雨の日を重点的にして教
えた。十月二十九日より自宅で始められた。
 彼女は熱心なクリスチャンで、のち親長や勝、銃太郎は改宗したが、昭和二十年、帯
広で生涯を終えるまで貫き通した。
 この塾に青野村(現南伊豆町)出身の十三歳になる山本金蔵がいて、やがて官費の札
幌農芸伝習所に学ぶようになる。その時、札幌から送った大豆数粒の種が、十勝最初の
安定作物となり、一大生産物となるのだ。
 これが十勝開拓の盛り上がりの原点となるのだから、金蔵とカネの名はもっとクロー
ズアップされてしかるべきであろう。
 社員たちは、カネが来てから特に勉三を避けた。
「こんな土地は地獄だ。伊豆へ帰らせてくんろ。連れてってくんろ」
 と、せがんだ。
 だが、彼女も勉三同様に、
「東京も大阪も、初めは草野原だったのよ。最初にやる者は大変だけど、それだけ自分
の誇りにすることが出来るの。私は我慢しますよ」
 と、涼しい顔で取り合わなかった。
 やがてカネの説教に鎮められ、一同は「埴生の宿」を歌わされ、帰宅するのだった。
 鈴木親長は、五十三歳の入地であった。承知のように銃太郎、カネの父である。妻が
開拓生活を嫌ったため、単身での参加であった。
 彼は、帯広の地で三幹部に出会った時、京浜の地で火のごとく燃えた志に翳りを感じ
た。表面、強気を装っても、作物の不作による疲労を隠せないものにしていた。
 そこで親長は、目先にとらわれず、高所から眺めやる必要性を説いた。そして夜間、
三幹部に「四書」など講義した。
 ある時、彼は野良で夕立に合い、
「武士(もののふ)の弓矢とる手をけがさじと 開く田畑にそそぐ村雨」
 と詠んで、武士魂を持ちつつ鍬を振るい、晩成社を見守った。
 そして、明治二十三年まで足掛け八年間を十勝で過ごし、以後も北海道移民募集に力
を尽くした。
 なお、三幹部も、親長が到着する以前より心が離れない方策をとっていなくもなかっ
た。学問をして来た誇りを捨てたら、開拓に打ち込めない者たちだった。毎週土曜日、
勉三、勝、銃太郎の家を持ち回りして、詩会が開かれた。
     十六年八月三十日夜偶成     渡辺 勝
   近来何事夢驚頻  寂々小窓養病身
   万里秋風衾冷夜  又燐客舎不眠人
 と、詠じている。一見して自信の揺らぎを感じる七言絶句である。このように彼らは
内面を吐露しあい、心の傷を癒しながら日々耐えていたのだ。

 筆者は、三幹部の日記を見て、かなり高度な文学性を感じる。この開拓は百姓のそれ
でなく、「憂国文人の開拓」と命名したいほどである。文人としての客観性がなければ、
このような困難極まる開拓は放棄さるであろう。
 なお、明治二十七年ごろ帯広では、勉三の弟・善吾が 晩成社事務所で「荒天社」とい
う俳句結社を作っている。晩成社員のほか、宮崎濁卑や関根盛平、戸倉豊吉、佐藤春太
郎、須貝太治らが加わり、盛会だったという。

 文三郎は、甘いマスクの美男子で、十勝で最初の洋犬を伴っていた。
 なお、勉三は、写真では髭面で頑強そうに見えるが、身長五尺二寸(約百五十五セン
チ)ほどで、痩せていた。それに比べ彼は遥か長身で、気品が備わっていた。
 文三郎は、勉三の方を向くより先にリクの顔を見て、言葉を失った。芸事も堪能で、
伊豆のお雛様リクが、百姓姿となり、おまけに痩せこけて見る影もなかった。かねがね
彼はリクに常に憧れを持って接してきた。この北海道へ来たのも、一つは義姉の側で過
ごせるからであった。それが、このみすぼらしい姿、涙が溢れそうになった。だが、勉
三に叱り飛ばされそうなので、唇を噛んで止めた。
 勉三が外に出た時、文三郎はリクに慰めの言葉をかけようとした。だが、詰まって言
葉にならなかった。彼女はそれを目ざとく察知して詰問した。彼の口から想像もしない
言葉が、ほとばしり出た。
 「義姉(ねえ)さん、本当に言いにくいことです。……残念なことです。気を落とさ
ないで……聞いてください」
 と言いながら、目から涙を溢れ出させた。
 リクは胸騒ぎし、次の言葉が怖かった。
 だが、
「早く言ってよ。何があったの。私、こんな暮らしが出来るほど強くなったのよ。何を
聞いても驚かないわ」
 と、反射した言葉が口を突いた。
 文三郎は、自分の言葉がスムーズに流れ出ないのがもどかしかった。
「伊豆を出る時、佐二平兄さんに堅く口止めされました。開墾の士気にかかわるからと
……。勉三兄にも言うなと約束させられたのです。黙っているつもりでしたが……。で
も、僕は義姉さんに弱い性格です。話します。でも、気を強く持たれて……」
「前置きばっかり、はっきり言って頂戴。文さんも男でしょう」
「それなら言いますよ。九月七日、僕が伊豆を発うとした日、俊助が亡くなりました。
亡くなったのです。可哀想なことです。ふじ義姉さんの胸に抱かれて、息を引き取りま
した。でもでも、みんな一生懸命、介抱したのです」
「ええ、俊助が……」
 と、彼女は絶句した。
 文三郎は、慰めの言葉をかけられないまま、悪いことをしたと後悔した。
 リクの頭の中は、真っ白になった。やがてその霧の中から、俊助がこぼれる笑みいっ
ぱいに小さな手を差し伸べて飛んで来た。そして胸にぶつかり、手を差し込み、赤い分
厚い唇を乳房に当て、ちゅうちゅうと己の命を吸い取るようにかぶりついた。半年前の
感触がよみがえった。その俊助の温もりが、この世のもので無いとは納得出来ないこと
であった。嘘だ、夢だ。誰が信じられようか、心の中で大きく叫んだ。だが、やがてつ
ぶやきとなり、文三郎さんが、この私に嘘をつくはずがない……。
 そして、彼女は文三郎がいることを忘れて泣いた。三歳に満たない生を終えるなら、
北海道へ連れて来て、せめてこの胸の中で死なせてやりたかった。かけがえのない小さ
な命の消滅は、切なく身を切り裂かれる悲しみだった。あの時、勉三に断られたが、こ
こまで連れて来るのが母親の役目でなかったのか。落とした涙の一粒一粒に、俊助の笑
顔が円形をなして浮かんだ。また、それが伊豆での別れ、悲痛な叫びのゆがんだ顔に、
変化して消えた。
 それからのリクは、勉三の顔を真っすぐ見れなくなった。小さな命を見捨て、女の幸
せを奪い去った、憎い男であった。そして、俊助が死んだと聞いたことをおくびにも出
さなかった。文三郎のため、また、勉三への復讐のためにも、黙っていようと心に誓っ
たのだった。
 それからもリクは、ひとりになると俊助を思い、涙をこぼした。そして、悲しみは心
臓に差し込む痛みを連れて来た。やがてそれから逃れるのに、黙々と体を動かす以外に
ないことを学習した。
 勉三は、今日も俊助の死を知るか知らずか、文三郎を分身とし、それを怒鳴りつけ、
草原を駆けていた。雪を載せた大地は、文三郎にとって不毛に思えた。
この大地にうつつを抜かし、家庭をかえりみない兄の横顔を不思議に眺めた。
 勉三も文三郎も測量の技術を持ち合わせていた。共に測ると、初年度晩成社開墾面積
は二町八反に満たない数字であった。目標の一万町歩を拓くには、三千三百年余の経過
が計算となる。
 文三郎は、これを十五年で拓くとした兄の夢に疑念を持った。周囲を省みない態度が
気に入らなかった。中でもリクのやつれを、なぜ気にとめないのか。