第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目


     第8章 豚とひとつ鍋(31歳〜33歳)

 親長は、萎えがちな三幹部を奮い立たせるため、来年度の参考にしようと、銃太郎を
十勝川近傍農況視察を提案した。こうでもしなければ閉塞感が除けない空気であった。
また、そのついでの種の購入に当たらせた。明治十六年十月二十二日から十一月四日ま
でで、帰途、大津から米、味噌、日用品を二隻の丸木舟を雇って乗せたが、川の増水に
より味噌樽二個を流失させた。
 十一月二十三日、銃太郎は社員一同を自宅へ集め、視察状況報告をした。そして、来
年は何を耕作すべきかを示した。それにより来る年への希望をつなぐのだった。

 二十六日、札幌勧業課の役人が 晩成社を訪れ、「十勝川上流の鮭の捕獲を禁止し、ふ
たりの監視人を置く」と、一方的に通告した。
 やや日を経て、アイヌの人たちの窮状が知らされて来た。鮭が禁漁となり、鹿が野火
の脅しにより奥地に追いやられたことで、文字どおり死に直面しているというのだ。農
耕を慣習とせず、鮭漁と狩猟が思うようにならなければ、死活問題となるのは必然であ
った。
 当然、鮭は晩成社にとっても欠かせぬタンパク源であった。
「鮭を数日生き延ばして、人間を殺すのか。我々はまだしも、アイヌの人たちが可哀想
ではないか」
 と、勉三らは憤慨した。そして、
「当局の方針は繁殖保護にあるのだから、産卵期の禁漁が肝心、死んでいく鮭を禁漁す
るのは、行き過ぎではないか」
 と、役所に訴えた。すると、
「今のところは、見ていて見ないことにしよう」
 と、ようやく黙認をとりつけ、急場をしのいだ。

 明治十七年元日は、晴れて明けた。
 勉三は日記に、
「茫漠たる広野に僅々十戸の雪に埋もれたる小さき草小屋あるのみといえども、我らこ
の中にありて意気揚々として、この地に初めての新年を迎う。毎戸醸成の濁酒をもって
年を賀す」
 と、意気を鼓舞いさせた。
 四月十日、月の半分が欠ける月食となった。アイヌの風習として小銃を放ち、舟縁を
叩いて、夜明けを迎えた。この所作は月の眠りを覚ます意味だという。
 その呪文が天に届かなかったのか、またしても「アイヌ飢ゆる」との報が、四月二十
日届いた。
 勝と銃太郎は連れ立ち、オトブケプト、モッケナシの実情を視察した。鹿肉も鮭のな
いアイヌの生活は、筆舌に尽くしがたい惨状だった。ふたりは米を与えて一時をしのが
せ、農業を共にすることを約束した。
 勉三は、アイヌの人たちを晩成社員に加えることを、伊豆で開催する通常総会に提案
しようと考えた。以前、彼は尿道を毒で詰まらせて苦しむアイヌ男児の股間を、口をつ
けて吸い取ったことがあった。
 勝は「ニシバ(親分)」と呼ばれるほど、アイヌの人たちに人気があり、同化に努めな
がらよく世話やいた。
 中でも銃太郎は、やがて酋長の娘と結婚し、何人も子供を設けた。晩成社の歴史は、
アイヌとの交流そのものであった。
 しかし、晩成社が当てにしたアイヌの労力は、バッタの産卵採取のためほとんどが浦
幌方面へ駆り出され、戦力とならなかった。

 そんな中、またしても衝撃的な事件が起きた。雪解けが始まる頃「さあ、農作業だ」
と、一同が気勢を上げたばかりだった。そこで大津に預けてあった米を受け取りに行っ
た。だが、晩成社の米は蔵から無くなっていた。
 商人でもある蔵主の話では、海が荒れて船が入らず、村人にせがまれ、一時的に流用
したというのだ。晩成社の米はアイヌの人たちにもやり、既に払底していた。
 勉三の家である。さすがの彼も青ざめ、ただ腕組みをするばかりだった。その周囲に
勝、銃太郎、親長、文三郎が車座になっていた。
 リクは、中央の炉の自在鉤に吊るされる大鍋に、何やら刻んだものを入れた。
 その重苦しさの中、口火をきったのは勝だった。
「この地は呪われたとしか言いようない。作物が育ったと思えば、野火、バッタ、日照
り、長雨、九月に霜、十月に雪だ。それに蚊、ブヨ、虻に食われ、オコリにかかり、お
まけに今度は米がない。飢死の危機の到来だ。ああ、潔く白旗を振って降参すべきでな
かろうか」
 と、言えば、銃太郎も、
「ここを選んだのは、私にも責任がある。今となるとケプロンや田内、内田の言葉に躍
らされていたかも知れない」
 と、何時になく気弱な発言をした。
 次に発言したのは、文三郎だった。入地時はあか抜けしていた顔も、今では髭面にな
っていた。遠慮がちに口ごもり、
「僭越ですが、一言だけ言わせて下さい。これは初めて口にすることです。命あっての
物種です。もし、生命にかかわる事態になったら、撤退も一つの選択肢だと、佐二平兄
は言っていました。その時は勇気をもってせよと」
 その頭の中に、リクを救いたい一念も含まれていた。
「さすがは肝の座った佐二平大兄だ。今日の事態を想定されてのお言葉であろう。食べ
るものがなくなった以上、撤退も止むなしか」
 と、銃太郎は結論付けるように言った。    
 こんな時の勉三は、進んで口を開こうとしなかった。もはや己の決意だけで如何とも
しがたくなっていた。
 田内、内田の報告書、また、天草移民計画を聞いたのが、十勝入地への発端である。
だが、他移民団が入地する気配は、二年を経てもなかった。心のどこかで政府の援護射
撃を期待していたのだ。名だけ欲した訳でないが、同じやるなら、先駆けしたかった。
だが結果は、二階に上り、梯子を外された心境であった。己の甘さと、性急さを嫌悪し
た。兄に頼りながら、兄を超えようとした企みが、兄に見透かされていたのだ。髪の毛
を掻きむしりたいほど恥じが充満した。
 勉三は、だがしかし、と考える。飢餓と採算面からの撤退は最善かも知れない。だが
正直いって読んだ文献、見聞、社則の幾つを実行したか、を自問した。
 その時、親長がおもむろに口を開いた。
「お前たちはたったの一年で音を上げるのか。日本男児の恥ではないか。我々はケプロ
ン報文に挑発され、開拓の旗上げをしたではなかったか。この十勝の大地には草木も、
ひとの子供も立派に育っているではないか。勉三君も銃太郎も、咲き競うすずらんを見
て、十勝野に立ちのぼる運気を感じたと話したではないか。必ずこの地、この気候に適
合する作物に巡り会える。一年で音を上げる大器晩成など、お笑い草だ」
 と、吐き捨てるように言った。
 年長者の言葉には説得力がある。例え勉三が同じ言葉を使っても、反発されるのが落
ちであろう。
 続いて親長は、
「バッタだって、お上が必死に駆除法を考えている。アイヌの人たちの労力をそちらに
持っていかれたと嘆くより、産卵場所を捜し、それを焼却処分で手助けしていると考え
たらどうか。バッタが少なくなれば晩成社は助かる。道路もやがてお上が腰を上げるだ
ろう。我々はこの地に適した作物を選び出すことだ。初心に返ってこの大地の無限性を
信じようではないか」
 と言えば、誰も抵抗の言葉を発しなかった。
 勉三は、親長が自分を代弁してくれたことを感謝した。
 銃太郎もコカトアンを思い浮かべて口をつぐんだ。だが勝は、勉三に飢餓救済法を聞
き糺さなければと思った。
 この時、リクが炉に近づき、木椀に鍋のものを盛りつけた。そして、箸を添え、それ
ぞれに差し出した。
 勉三、文三郎を除く者は、中央の鍋がそのころ飼い始めた豚の餌だと思っていた。そ
れが目の前に差し出されたのだから仰天した。勉三は経営者の立場から三分粥ぐらい食
べていると思っていたのだ。見れば大根の干葉と野草の間に、少量の鮭肉と数粒の米が
散見された。
 塩味のそれを一口入れた勝は、椀の中をじっと眺め尽くした。そして、太い息を吐き
捨て、
「落ちぶれた極度か豚と一つ鍋」
 と、思わず口をついた。
「ふむ、絶妙の名句だ。今の暮らしを言い得て妙だ」
 と、銃太郎は感心した。
 勉三は、これまでの思いを隠し、無言で酒をすすめた。自分も豚の餌らしきそれを口
に入れ、ようやく口を開いた。
「勝君、今の句は開拓者の零落を嘆いての絶望の句に聞こえる。未来に広がるものがな
い。そう、どうだろう、こう訂正した。《開墾の始めは豚と一つ鍋》と……」
 勝は、(さすが、理想肌の副社長。武士は食わねど高楊枝)と、茶化そうとしたが、
親長の手前、口中に封じた。
 一同は、勉三の句に特別の反応を示さなかった。まだ、現状は打開されてはいないの
だ。それでも親長の口添えで、解散の危機は回避出来た。それぞれの顔には安堵の色が
流れていた。
 だが、その中にあって文三郎だけが浮かぬ顔をしていた。彼はリクの仕草のすべてを
眺め、その体を気遣っていた。解散が最善と考え、佐二平の言葉を伝えたのだ。解散な
らリクは、伊豆で健康を取り戻せる。だが、その意外な展開に呆気にとられた。
 これは文三郎がアイヌの子供から聞いた話である。十勝の語源は「トカップ」で、意
味は「お前らも魚の皮が焦げるように炙られて、焼け焦げるような運命に遭え」と、い
うのだという。太古、アイヌは日本全国各地にいた。そこへ戦い好きな和人が勢力を伸
ばし、九州や北海道へと追い詰めた。そのころ、北の住人はコロポックルという小人の
国であった。コロポックルの意味は《蕗の下に住む小人》というのだという。
 今度は、アイヌの人たちがコロポックルを追う番になった。逃げ場を失ったコロポッ
クルは、十勝川に身を投げ溺れ死んだ。溺れながら、発したのが「トカップ」なのだ。
 だから呪われた土地だと、彼は信じた。不毛の大地も、リクの病気もそのためだと思
った。
 命にかかわることは、誰もが敏感になる。どこから聞きつけたか、早くも社員が勉三
の戸口に集まった。だが、その顔にはどこか明るいものがあった。
「よう、米が無くなったんだって。食うものがなければ伊豆へ帰れる。不幸転じて幸い
となる。伊豆へ帰えれる。帰らせろ」
 と、はやし立てた。
 勉三は、戸口を勢いよく開け、
「米は儂が何とかする。皆の衆、開墾に力を貸してくれ。この通りだ」
 と、頭をこすりつけ土下座した。
 一同はこれほどに、頭を下げた勉三を見たことがなかった。
 社員らは「十勝」と聞いて、「十も勝つ」と、縁起の良い名だと惚れて来たのだ。
「今に大地主になって見返してやる」
 と、口に出さないまでも、心に誓って来たのである。だから帰るに帰れない面もあっ
た。食糧が確保されるなら、ここでやってみようという気になるのだった。

 勉三は、明治十七年七月六日、伊豆松崎・松会楼で開かれた 通常総会に出席した。不
屈の精神は健在とはいえ、株主にどう開拓の現状を伝えたらいいか、暗澹とした道中で
あった。第一年度の無収穫、流用された米の緊急搬入など、言い出しにくいことばかり
だった。そのため、綿密な銃太郎の「開墾気候雑記」や、先に述べた勉三、勝の「陸海
旅行記」を同冊にした。
 株主は、初年度二町八反歩の開墾面積に唖然とする者が多かった。勉三はアイヌの人
たちの力を借りれば、目標の達成は可能だと、表面では楽観的希望を述べた。そして、
アイヌの人たちを社員にする議案を提出し、承認を得た。
 勉三の留守中、七月十三日、勝は、札幌県吏拇野がアイヌ窮状調査に帯広へ来たのに
会った。そして、鮭を主食とするアイヌが禁漁法によって、いかに困っているかを切々
と訴えた。
 勉三は、四月より十二月初旬まで帯広を留守にし、総会や各所で諸用をなした。
 その間、銃太郎は「晩成社総代依田勉三代理」の肩書で、請願書を役所に提出した。
だが、行政と施策がかみ合わず、却下されるものが多かった。昨年九月に提出した道路
開削願いも却下され、これに対する陳述書を再度提出した。なお、肝心の「地所御下付
願」は、明治十六年五月入地早々に提出したが、未だ梨のつぶてだった。

         願書渋滞の件に付御願
本願書の儀は明治十六年五月二十四日付を以て差し出し置き候ところ、御受付に相成り
候日、即ち明治十六年九月十七日より御奥印相成り候、即ち明治十七年八月十二日に至
る実に十有一カ月を経過せり。右は何等の御都合に候哉、向後出願の都度かく遷延いた
し候ては不都合奉り存じ候間、この段念のため伺い奉り候也。
                  晩成社総代依田勉三代理 鈴 木 銃 太 郎
    明治十七年九月二十三日
  浦河郡役所御中

 また、勉三の留守中、五月二十八、九日と晩霜があり、折角発芽した豆類に被害があ
り、八月十四日より九月二十二日まで数回バッタの襲来があった。昨年の体験もあり、
刈ってあった麦などを、屋内に取り込み、被害を最小限の食い止めた。だが、玉蜀黍、
大根、蕎麦などは食害にあった。
 十一月中旬、音更に大熊が出没し、アイヌの猟師は打ち損じて食べられた。それを復
讐しようとアイヌの人たち十名ほど集まり、数発を放ったが命中せず、熊の怒りは増す
ばかりだった。日がすでに傾き、一同は明日にしようと帰ろうとした時であった。その
大熊は赤い口を開けて襲い掛かって来た。猟師のひとりが振り向きざま銃弾を放つと、
頭部を貫通させ仇討ちをはたしたという。なお、腹中には食べられた仲間の頭髪と褌が
あったと、晩成社へ来て話した。
 この年の開墾面積も、昨年とほぼ同じ二町六反しか拓けなかった。勉三はアイヌがバ
ッタの駆除にかり出されて開墾出来なかったのだと、己の言い訳にした。 

 明治十八年元日は、天気晴朗で、社員は勉三の家に三三五五年賀の礼に訪れた。昨年
も蝗害などに見舞われ、豊作とはいえなかったが、日常に慣れたためか表情は比較的明
るかった。
 二日、勝と銃太郎の家で「カムイ飲」という、アイヌの儀式をならった交流会が開か
れた。来会したアイヌの人は六十余名にのぼり、夜中の二時まで歓を尽くしての盛会と
なった。
 一月六日、高橋利八の家に女児が誕生した。後日談だが、六月九日にカネが女児を出
産。勉三や銃太郎でも豚の出産が相次ぎ、九月には六頭の農馬が大津より運ばれ、社員
に分配された。
 二月十九日、昨年九月提出の地所下付願書の指令を得た。ようやく官庁との交流が生
じ思いで、大いなる光明であった。

       地 第七号
願いの赴き地所十三万坪、本年より向う三カ年間、仮に渡し下げ候条、毎年墾成有無と
も十一月三十日限り届出べき事。ただし追って道路新設すべき地所は実測の際、削除す
ることあるべし。
  明治十八年一月二十日
                  札幌県令 調所広丈代理
                     札幌県大書記官 佐 藤 秀 顕

 内地では初雪が話題になるが、十勝では初雨が貴重な暦の節目となる。この年のそれ
は四月八日であった。
 この日、勉三は社員を銃太郎の家に集めた。
 そして、
「本年度より社則に基づき地代を徴収する。一反歩当たり小豆一石二斗とし、その十分
の二を社に納入すること。また開墾料として、宅地一反五十銭、耕地一反二円二十銭、
これは社から各自へ支払う」
 と、宣言した。
 勉三の性格から、あくまで社則は絶対だと考えた。すでに地代免除期間は一年延期さ
れていた。余計な猶予を与えれば、開墾に対する意欲が半減すると信じた。
 これに対し勝、銃太郎の二幹部は、秋の収穫をみてから決すべきと主張した。そうし
なければ、農作業意欲は鈍るというのだ。
 その間にあって親長と文三郎は、中間的立場をとった。どちらにも一理あり、それも
天候に左右されるのが、農業の不思議さである。
 年初来から続いた朗報に加え、天候もよく作物の生育も順調であった。そして、人々
の顔に笑みがこぼれ、勉三の楽勝かと思えた。
 しかし、一時的にバッタの被害は激減したものの、七月は旱魃と長雨が交互に偏続、
十七日より十日間霖雨で日の光を拝むことが出来なかった。その中で無害なのは馬鈴薯
とタバコで、馬鈴薯は一反歩当たり平均五十俵の収穫があり、直接食用のほか、澱粉に
するなら相当利益が上がると皮算用した。
 また、ある者は養蚕を試みた。気候不順から成績良好といえなかったが、将来に希望
を抱けるものとなった。
 だが、やがて作況は、総じて不作となった。
 七月三十日、勝ら四名は連署して、勉三に貸米を申し出た。そんなことで、この年も
地代徴収とはいかなかった。
 そんな折り、佐二平の妻ふじの訃報が入った。リクにとっては実姉で、姉は俊助を育
てられなかった心労で、命を縮めたのだと思った。
 勉三は、昨年八カ月近く帰郷しながら、リクに俊助が亡くなったと伝えなかった。リ
クは「知っているくせに」と、その横顔を睨み、こちらも心を閉じて触れようとしなか
った。
 リクの救いは、文三郎がリクの心身を気遣ってくれることであった。時折、胸のあた
りが痛み、勉三の留守中寝込むこともあった。
 文三郎は、それを見かね、
「義姉さんの体は、相当に弱っています。伊豆で療養させるべきです。家事は僕がやり
ますから……」
 と、勉三に進言した。
 勉三とてそれに気付かぬ訳ではなかった。俊助の死の無言も、リクの体を気遣っての
ことであった。子供を欲しいと熱望しながら、やつれた身体を抱こうとはしなかった。
これも彼流の愛情表現なのだ。心のままやさしい言葉をかければ、己の開拓者魂が崩れ
落ちそうで堪えていたのだ。
 弟に言われた勉三は、ようやくリクに声をかけた。
「リクよ、伊豆で静養したら、どうか……」
 ふいに夫のやさしさに接したリクは、か細くなった体を咳き込ませ、
「いやです。私を北海道で死なせてください」
 と、応えた。
(俊助のいない伊豆など)と言いたいが、文三郎の手前出来なかった。
 勉三にとっても、この開拓は予想外の連続だった。愛しいリクと暖かい伊豆で、安穏
と暮らしたい衝動にかられたことも、一度や二度でなかった。
 その瞬間、鼻高なケプロンの《そもそも本島の広大たるや、その財産は無限の宝庫、
肥饒の沃野を放置するは……》の言葉が浮かび、自らが《ますらおが心定めし北の海、
風吹けば吹け浪立たば立て》と 応え、《北海道の開否はわが全国の形成上重大、国民の
義務として》、《無用な者が有用の者ならん》と、北海道の開拓に奮い立った日を思う。
「リクよ、お前が嫌いになろうはずもない。別れるのではない。健康を取り戻し、開拓
者の妻の体になって帰って欲しいのだ」
 と、勉三は再度諭した。
 リクは、勉三の開拓に対する揺るぎない心を知っているので、渋々ながら承知しなけ
ればならなかった。
 九月十一日は雨で、勉三はリクの旅支度を手伝った。一度も袖を通したことのない着
物も行李の中へ詰めかえた。また、毎日髪を梳いた櫛を手にした時、甘い香りが胸を締
めつけた。そして、この家から彼女がいなくなることを改めて考えた。
今は、ほとんど野良に出なくなったが、リクを失うことで果たしてこれから開拓に打ち
込めるか、心もとなかった。
 リクは、自らボタモチを作り、番傘をさして社員たちに配って歩いた。そして夕刻、
社員を自宅に招いて酒宴を開いた。勉三にやさしくされたリクは、己の送別会でありな
がら、少女のような笑顔をふりまいた。
 中でも一番複雑なのは文三郎だった。自分が望んだ方向へ進みながら、彼女のいない
北海道は無意味に思えた。そして、リクが帯広を離れる時、まともに送られず、陰に隠
れて涙を流した。
 リクは、勉三に連れられ函館へ出た。二十六日午前九時、彼女は「東京丸」のひとと
なった。汽笛が出港の挨拶をし、後姿をかすませると、勉三はその足で桔梗村の澱粉製
造機を見学に出掛けた。何かを課さなければ、己が崩壊するように思えた。
 その晩、勉三は釧路行きの帆船に乗るが、風浪が激しく出帆できなかった。二十八日
出帆となり、一昼夜かけ二十九日、霧深い釧路に着いた。そして、リクの安着が気にな
り、横浜へ打電した。やがて「キノウブジツイタ」と返電があり、胸を撫でおろした。
 十月二日、勉三は大津まで歩き、漁業者に貸した晩成社の金を催促した。だが、先月
下旬の洪水により河口が決壊して漁場二カ所を損害、支払い不能に陥っていた。そのた
め獲れた鮭を以て代金とすることにし、十一月十九日までの四十八日間、大津に滞在、
漁場監督をした。
 勝と、今春設置した大津出張所のYも、これを応援した。
 この間、勉三が帯広へ帰ったのは十月十四日のみであった。結果として五つの漁場が
勉三名義となり、年々漁場代を徴収することになった。
 また、銃太郎を馬鈴薯澱粉製造研究に札幌へやった。一方、勉三も十一月二十日、大
津を経て伊豆へ向かった。目的は函館、東京での農具購入と、陸奥南部地方の農耕牛視
察をかね、例の漁場をどう処分するかを、佐二平らに相談するためであった。
 函館に八日間、陸奥に十一日間、東京に八日間、横浜の鈴木真一宅に十三日間滞在、
明治十九年元日を横浜で迎えた。

 明治十八年の特記事項を二、三あげると、四月、大津に晩成社出張所を開設した。そ
こで用務を済ませた勝、銃太郎が、丸木舟で帯広へ帰る途中遭難した。強い逆流に棹を
折り転覆破損し、勝、銃太郎と二名のアイヌの水夫は九死に一生を得たが、金穀を流失
させ、他の一舟の豚四頭、山羊二頭は事無きを得た。五月、S家三名が多病を理由に離
脱した。戦力はまたも落ち、本年も二町二反歩の開墾しか出来なかった。しかし、アイ
ヌ授産教師宮崎濁卑が伏古村に入地したことは、勉三には強い味方を得たことになる。