第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目

                 
     第9章 友情亀裂(34歳〜35歳)

 明治十九年一月十日、勉三は大沢に到着した。何時もなら港へ着くとまず塗り屋(善
六宅)へ寄るのだが、リクに顔を合わせるのが辛く、直接大沢へ帰ったのだ。
 以後、社務に専念し、三月三日午後四時、松会楼にて開催された晩成社通常総会に出
席した。三年間の不作に呆れたのか、わずか五名の出席者であった。それでも勉三は熱
弁をふるい、いささかの翳りも見せなかった。
 また、帯広への帰途も、リクに近い松崎港でなく、婆娑羅峠を歩いて越え下田、そこ
から船で、三月十七日東京へ着いた。東京では営業報告書の印刷依頼、農機具購入にあ
たった。
 そして、三月二十二日横浜を出港し、二十五日函館へ着いた。函館滞在中の勉三は、
牛馬を使っての鋤耕名人・田中清蔵に 帯広で働くよう懇願した。二十八日函館出港、二十九
日釧路上陸、四月一日大津、そして五名の雇い人を率いて、六日帯広に着いた。
 勉三が帯広の土を踏んだ時、既に澱粉製造所の建築が始まっていた。第一の安定作物
になりそうな馬鈴薯にかける意気込みは強かった。だが、親長の提案にせよ、時期尚早
の感はいなめず、過大な先行投資となるのだった。
 四月、田中清蔵が社の耕夫としてやって来た。牛四頭のプラオ(西洋鋤)で、みるみ
る草原を畑にした。
 その頃、銃太郎が酋長の娘コカトアンと結婚すると宣言した。これには先進的クリス
チャンである親長、カネの父妹ですら反対した。一家の柱、長男が、異民族と結婚する
など許せないことであった。
 親長は、
「文字も知らず、異文化、異民族の娘と結婚しても、絶対うまくいく道理はない。不縁
となるは必然……」
 と、言い放った。
 だが、普段父親に柔順な銃太郎も、これにはテコでも動ごこうとしなかった。   
 そして、銃太郎は、
「かつて和人がしたように、アイヌ娘を古草履のように捨て去る風習は当世風でしょう
が、私は愛情こそ結婚の第一義だと考えます。学問、血統、家柄を捨てての入植です。
私の妻は私が決めます」
 と、頑として受け付けなかった。
 また、カネには、
「何もかも捨てて開拓に身を捧げたのだ。十勝のアイヌと結婚してこそ、真実の開拓が
出来るというものではないか。開拓は土だけのそれではない。それは人間の開拓、即ち
アイヌ民族との暖かい血液を合わせての開拓だ。大地は和人だけ、アイヌだけのもので
はない。和人とアイヌとの結合こそ、本物の十勝の開拓ではないか」
 と、言った。
 しかし、そこまで言われても士族の血は、父妹に納得を与えなかった。そこで晩成社
の責任者勉三に頼むことにした。
 勉三は、言われるまま伝える立場をとった。
「父上とカネさんのたっての願いでここへ来た。儂もリクとの結婚を周囲から反対され
た経緯があるので言いにくい。だが、血族なればこそ、不幸を想定、危惧しての反対も
分かって欲しい。君の心も理解しているつもりだが、考え直すつもりはないか」
 と、遠慮がちに言った。
 これを聞いて、銃太郎は烈火のごとく怒った。
「いや、最近の君は優柔不断過ぎるではないか。見損なったよ。何であれ、それ伝える
からには、そちらの立場を優先したことになる。君と僕の仲はそんなに薄っぺらなもの
だったか。理解し合ってここまで来たのではなかったか。なら、僕の心になって、頼ま
れた時点で、父と妹を説得してくれてもよかったではないか」
 と、勉三を軽蔑するように見据え、
「君は、君自身の結婚をどうみるのかね。結婚する時、既に北海道の開拓は頭の中にあ
ったはずだ。不釣り合いは君の方ではないか。リクさんを結果として伊豆へ返した。嫁
は現地に合った者を選ぶのが賢明というものだ」
 勉三は、思わぬ方角へ飛火したことで、次の言葉を失った。
 五月八日、三十一歳の銃太郎、二十一歳のコカトアンは結ばれた。この日、彼女は鈴
木常盤と改名した。結婚式は酋長の家で開かれ、勉三は社員と共に出席した。新婦側は
酋長、副酋長のほか一族数名が祝福した。
 銃太郎は、その常盤について次のように書いている。
「この玉や世間になし。特に北海に産す。光沢なく斑点なく、何の宝石なるを知らず。
しかれども久しく土中に埋没して人の目にも触れず、色やや黒し。我これを久しくこれ
十勝の野に得たり。心中思えらく奇貨おくべしと。以来切るが如く瑳るが如く琢つが如
く磨るが如し。玉変じてツマとなる。このツマや薪炊、洗濯、裁縫および家内の雑務を
挙げてことごとく己が任とし、毎日転々まめに働き、よく家事を運転す。はじめて知る
玉は家の財産にして、……このツマを名付けて常盤という」と。  
 勉三も、常盤が日増しに輝く様を見て、さしでがましくも忠告したことを悔いた。そ
して、遠い伊豆のリクを思った。
 銃太郎は、妻帯したことで以前より農耕に力を入れた。田中清蔵のプラオの使い方な
ど見ただけで覚え、名人の域に達するのだった。
 勉三にとってそれは喜ばしいのだが、露骨に晩成社経営を批判するので閉口した。地
代の徴収、機材の貸料、生活費を貸金とし、それに利子をつけるのは時期尚早で、開拓
への意気をそぐ社則だと言うのだ。
 一方、勉三は経営者的立場にある。幾つもの文献をあさり、理想に近い社則を作った
という自負がある。その社則を曲げ続けることは自己否定につながる。これは多くの株
主を募る約束事なのだ。彼の脳裏には福沢諭吉の「独立自尊」の語が浮かぶ。独立心な
き開拓は、真の開拓ではない。もう、二年も地代徴収を見合わせたではないか。今年こ
そ徴収する旨、再び宣言した。
 晩成社の事業を高利貸的だというひとがいる。初耕一年を除き、二年目より地代とし
て収穫の二割。農具、肥料などの貸料、家屋や生活費を貸金として扱い、それに年利一
割五分の利息を課すことが問題になるのだ。
 だがこの時代、郵便貯金の利息は、日歩七銭二厘で、年利に換算すると二割六分強と
なる。だからして晩成社側が相当額補填していることになる。
 ついでながら社則第八条をみると、
「純益二割を株主への配当の上限とし、その余は積立て、社員集議の上、小にしては本
社植民地のため、学校、病院、道路費及び救恤等を補助し、大にしては国家の義挙に応
じ、本社は国民の義務を尽くさんとして成立するの主意を振張するものとす」
 と、ある。
 晩成社は赤字経営に苦しみながら、勉三は個人として教育、信仰、殖産、公共物への
土地の提供、寄付金などを惜しまなかった。
 勉三は社則を守っての打開策をさぐった。心残りなのは第十一条でいう、
「一万町歩を願い受け、まず牧場となし、人畜繁殖の形状により漸次、牧場変じて耕地
となす」の条目である。
 まだ、本格的な牧場には着手してはいない。
 彼は、銃太郎のようなあからさまに食い下がるタイプを苦手とした。それに屈せぬた
め新天地を求めるべきだと思った。
 それを探るべく、五月十一日より十八日まで文三郎を伴って、海岸沿いの広尾村、当
縁村を視察した。そして、生花苗に牧場を開くことに決定した。
 勝と銃太郎の二幹部も、やがて然別、渋更方面に目を向けるようになる。帯広で暗く
牽制し合うより、それぞれが発奮出来る土地を選ぶようになるのだった。
 よく彼らは帯広を捨てたと言うひとがあるが、主力の六戸は残ったし、田中清蔵を雇
って牛仕立てのプラオで耕作している。牛四頭の力が大地を引き裂く西洋鋤の威力はす
さまじかった。
 作付ける種類も試行錯誤の結果、粟、大小豆、大小麦、そば、馬鈴薯、ささげ豆、疏
菜、葉煙草などに絞られていった。

 勉三は、自分自身が裸にされ、試されていると思った。文三郎を叱咤して小山を、草
原を、海浜を駆けた。不器用さはすっかり消え、弟の不器用さをなじるのだった。
 思い切った牧場を作ろう。それもただの牧場ではない。農事試験場として水稲、藍、
製麻など試み、成功したら帯広に移して社員の暮らし、晩成社の経営に役立てたいと考
えた。 
 これより前五月二日、社の大津の塩倉が焼失した。そのため勉三は十八日より大津に
滞在して処理や生花苗地所願書の手続きをした。そして、帯広には二十一日に戻った。
 電光石火のごとく、二十五日には文三郎を生花苗へやり、鍬入れを行わせた。
 そして、六月十一日、文三郎が預かる社馬が牝馬を出産した。勉三は押せ押せムード
の中、帯広において社務に精を出した。
 だが、腰を折るように七月十日、峰輪大屋に婿入りした弟唯四郎(大石)が、六月十
三日死去との訃報を手にした。彼も慶応義塾出身者であった。
 しかし、勉三には悲しみに沈む余裕がなく、帯広で晩成社の会計をし、作付反別帳簿
の再調査をした。
 また、七月十六日は、開拓記念日なので、一同を休ませて地神を祭り、酒を飲み、粟
餅を振る舞まった。
 翌日、勉三は豚四頭を舟に乗せ、十勝川を下った。生花苗で飼育するためで、大津へ
着き、十八日午後より濃霧の中を歩いた。晩はそれが晴れ、月の美しい中、生花苗に着
いた。
 八月には、牛十四頭が生花苗に入り、徐々に牧場としての体裁を整えていった。
 八月十二日、勉三、勝、銃太郎三幹部と常盤は、酋長モチャロクの宴会に招かれた。
午後三時、勉三は勝の家に寄って銃太郎と常盤の来るのを待ち、共に舟に乗って音更ま
で行った。だが、酋長の家に着いたころには日暮れ、既に宴は終わっていた。しかし、
酋長は、娘が銃太郎に大切にされていることを喜び、改めて宴を開いてくれ、それは夜
更けの二時に終わった。この時点では勉三、銃太郎の両者は内心を隠し、険悪さを見せ
なかった。
 十月、親長は大津出張所を見回った。また、田中清蔵は生花苗牧場の牡牛四頭を使っ
て、帯広の開墾を始めた。
 十一月十三日、帯広においてハム製造所の建設に着手した。やがてハムは製造される
が、その見本を手にした横浜グランドホテルのシェフは、
「ハム自体は上出来とはいえないが、すばらしい肉質だ」
 と、舌を巻いたという。やはりここでも輸送費に難があり、大きく伸長するに至らな
かった。
 この四年間の開墾面積は、本年度よりプラオによる開墾がされたものの三十町歩に過
ぎなかった。だが、作物の生育は順調で、初めて地代の納入がなされ、伊豆では盛大な
祝宴が開かれた。

 明治二十年に暦は改まり、元日、勉三は大津から「阿寒丸」に乗った。一昨年より名
義を勉三に移した二名の漁業者が、漁場災害や不漁により返金不能に陥ったのだ。その
対応策を練るため伊豆へ向かうのだった。
 二日、夕方より強い風雨となった。夜になって新冠沖まで進むが、逆風、波は激しく
船を打ちすえた。帆船の命である帆桁一つを失い、方向を変えて襟裳へ向かった。日記
に「苦液吐く一升余」と書くほど、命さながらの苦汁を味わった。
 三日、風雪となり、朝方よりサルル沖に投錨し、四、五日も同場所に碇泊を余儀なく
された。六日午後二時、ようやく吹いた微風に帆を上げ、七日午後三時半、函館に入港
した。
 そして、函館、七重に二十四日まで滞在、金策や社務、農具購入に当たった。
 二十五日午前四時半、函館出港、そして二十七日横浜へ入港、それより二月六日まで
東京、横浜を往復し、社用をし、二月九日、十勝を出て一カ月余にして大沢に着いた。
佐二平、善六と相談をした。
 三月三日午前二時、勉三は下田港より汽船に乗って午後三時横浜入港、その晩は東京
に泊まった。以後九日まで測量器械、農機具の購入に奔走した。なお、この帰郷で、少
しだけリクと対面した。
 横浜より三月十日正午過ぎ、汽船「和歌浦丸」に勉三は乗ったが、これに義兄樋口幾
太郎と、伊豆からの雇い人G、その妻子が一緒であった。
 幾太郎は、勉三の姉フミの夫で、その子鶴吉、孫娘キクも晩成社のために尽力した。
特にキクは、勉三の養女となり、晩成社を継承する八百の妻となった。
 勉三が三月十八日、函館へ着くと、文三郎の置手紙が待っていた。大津出張所のYが
社の金を持って二月下旬逃亡したというのだ。おまけにその留守を測るように盗賊が入
り、事務所が荒らされたのだ。Yは東京生まれで第一陣として入地、信頼していた仲間
だった。勉三にとって自然相手の凶作より、先の漁業者やYのような信頼を裏切る行為
は、腸を断つほど悲しさを覚えた。
 勉三は、札幌へ寄り製麻職人を雇うつもりだったが、函館警察署にY逮捕を要請、急
遽大津へ向かうコースをとった。
 二十一日正午過ぎに函館出港、波の高い大津沖に二十三日正午投錨したが、荒波のた
め艀が来たのは午後三時であった。それも波に翻弄され、河口まで来た時、船縁を破損
して荷物が波に洗われた。幸いひとは無事であったが、同行のGの妻はその騒動に気を
失い、勉三は温湯で薬を解いて介抱した。そして一両日、濡れた衣類や荷物を大津出張
所で乾かした。
 そして、逃亡者Yの件につき、同人保証人の勝と銃太郎へ飛脚をやった。やがて銃太
郎は大津へ来て、勉三、幾太郎と共にYの荷物調べをした。
 勉三は、時に生花苗牧場を視察したが、主に大津にいて道路開削願書の提出や社務を
した。
 四月十四日、プラオ農耕の田中清蔵が雇用満期となって、帯広から親長と大津へやっ
て来た。清蔵との送別の宴は帯広でしたが、大津でも開かれた。なお、親長は以後、大
津出張所留守居役となった。
 七月十五日、勉三、幾太郎、文三郎は、開拓記念日の桜餅を生花苗で作った。また、
一同は餅をつき、午後は酒を振る舞って宵宮の真似事をした。翌日は祭礼日で、朝より
飲酒、餅を食べて祝った。また、アイヌの人たちから「豚を欲しい」と頼まれ、二頭を
与え、彼らに酒を振る舞った。
 十八日、かねてからの念願であった水田に苗を植えた。この年は出穂期に霜害に遭っ
た。翌年、生花苗川の取水口に大きなタンクを設置し、下から火を焚いて水温を高める
ことまでした。だが、出穂前に霜に遭い、収穫に至らなかった。
 二十一日、勉三は大津に滞在して「十勝興農意見書」を書いた。これに親長が意見を
述べ、補助をした。夕刻、堀理事官が到着するのに間に合わせようとしたのだ。これも
名文なので拝読願いたい。

          十勝興農意見書
 十勝国は広し、直前より幌泉郡に接し、上川郡に達す。沃野漠たり、人稀にして耕牧
適すと。しかれども頻海の諸郡は山川小画して区域自ら狭隘なり。中川、河西、河東の
諸郡は上川その他の諸郡に連なり、一目平野にして寰宇(かんう=天地)大なり。いわ
ゆる沃野漠なりとはけだしこれを称するならん。しからば即ち十勝の興農は即ちこの地
方の興農なり。
 そもそもこの地たるや海浜を距ること十余里にして、陸路なく舟便甚だ苦しむ。これ
故に農家をこの地に移さんとせば日用家具、食糧に至るまで運漕の費用は実価に倍し、
その額尠(すくな)からず、富豪の農家にあらざれば企て及ぶべからず。しいてこれを
なさば難きにあらずといえども、農家移住の後その生産するところの農品はすべて売価
の低下なるを以て、運賃多きがため、ほとんど原価を無償とせざれば市場に出す能(あ
た)わざるなり。富豪の大農といえどもこの如く得失相償わざれば永続すべからず。い
わんや小農においておや。これけだし十勝に農家の興らざる所以なり。ここにいささか
吾輩遭遇するところの厄運を述べて、これを証明せん。
 今を去る五年前、吾同盟十有五戸相率てこの昿野に入り、草莽を開き穀菽を播す。運
漕甚だ苦しみ金穀しばしば絶え、飢渇こもごも至り壮丁失望し婦女涕泣す。ここにおい
て同盟ついに離心を抱き漸々減じて今わずかに九戸なり。これ地の瘠せたるにあらず、
麦菽よく熟し口腹を肥すに余りあり。ただ余穀を鬻き需要を買わんとするに運賃多くし
て農労に酬ゆるの価なきを以てなり。この如く生計困難の地に五年の苦界を過ぐ。人誰
か失望せざらんや。吾同盟の半を減ぜしもまた理なきにあらず。しかれども尚年々耕地
を広うして止まらざるが如きは不思議と言うべきなり。故に将来、水陸運漕の便を得ざ
る時は吾同盟もついにその志を達する能わず、ほとんど遺げつ(=忘れ形見)なきに至
らんか。
 初め吾輩この地とせしは年々同盟を招集して開耕する計画なりも、この如き困難の地
に復々同盟を募るべからず、これ吾輩の募集を猶予する所以にして、かつ資力乏しき吾
同盟の能わざるところなり。
 よって新にこの地に農を試みんとする者ある時は吾輩必ずこれらの困難を説き、これ
を止めて言わんとす、吾輩古参の農すら、かつこの如し、いずくんぞ新参の農にして得
失の相償うの理あらんやと。
 吾同盟は少数なり、ついに遺げつなきに至るも惜しむに足らず、ただ惜しむこの沃野
のついに不毛に属せんことを。
 この沃野は実に惜しむべきなり。これ吾同盟の生計の困難を忍びこの地開いて去らず
不可思議状を現す所以なり。
 今、閣下この地に親臨せらる。願わくばこの地を観、この実を察し、水陸の通路を開
き運輸を便にせんことを。これ吾輩の真に渇望するところなり、けだし、今日の急務な
り。
 果して水陸の道路を開き運輸を便にせば、この荒野も従ってたちまち良圃とならん。
しかりしこうてこの水陸の通路を開くはけだし巨金を要せず、僅なる金員と官庁の特典
によりて得らるべし。これまた、いささか卑見なきにあらず、ただ閣下の賢察を仰ぐの
み、ねがわくば陸路に駄馬を牽き、河川に荷舟を通じて運輸の道を開かば、十勝国は沃
土なり、招かずして人集まり、数年を出でずして農事興らん、あえて僭越を顧みず具上
す。                               誠惶謹言
  明治二十年七月二十一日
               十勝国河西郡帯広村晩成社員 依 田 勉 三
 北海道庁理事官 堀  基 殿

 これを堀理事官に面会して提出、翌日、理事官らは舟で帯広巡回に向かった。一方、
勉三はひとり馬で行き、彼らを帯広で待ち受けようとした。だが、途中、泥水の道に馬
の足は取られ、降りて難儀するうち、馬に逃げられてしまった。それより草むらの中を
歩き、折り悪く降り始めた雨に、衣服はもとより鞄まで乾くものはなかった。また、日
暮れて黒夜の道に迷い、身体は疲れ、空腹に苦しんで止若平に夜十時たどり着いた。
 二十三日早朝、知人に会うと、
「理事官は直ちに帯広を通過して、ここに立ち寄るから待つように」
 と、言われた。
 だが、これを聞かずに勉三は、なおも帯広で会おうと出発した。この予想は当たり、
帯広に着いた直後、理事官らも到着した。
 勉三は、理事官らを先導して帯広を巡回、暫時、晩成社事務所で休憩した。そして、
理事官らは丸木舟で十勝川を下り、勉三も別舟を雇い、夜十時に大津へ着いた。
 二十四日、勉三は馬を雇い生花苗牧場へ行き、牛を海浜に並べて理事官らを待ち、午
後一時半、理事官らはこれを観覧した。この夜、銃太郎が帯広より来た。

 このころ銃太郎は、
「四年無く五苦労千万畑を掘り、六でも無しの七顛八倒」
 という、狂歌を作っている。
 またしても彼は、勉三に晩成社の改革を迫った。幹部同士といえ、使われている立場
の銃太郎の語気が常に勝ったが、受け手の勉三も頑として聞かなかった。
 銃太郎は、勉三の態度に失望し、現地視察に来る佐二平に直訴すると息巻いた。
 八月十三日、大津村戸長は、利別道路開削見込みとなったから、勉三に工事予算書を
作るよう依頼した。仕事多忙を理由に断ったが、貴殿以外に適任者はないと言われ、引
き受けざるを得なかった。引き受けた裏には、一日も早く道路が出来なければ成り立た
ない晩成社の事情があった。測量のため舟で川を上り、山中を歩いて野宿し、アイヌの
人家に泊まり、最後の十六日は帯広の勝の家に投宿した。
 十七日夕刻、佐二平は大津に到着した。勉三は札幌農芸伝習所入試に釧路へ行く山本
金蔵を伴って大津に着き、文三郎も生花苗より来た。そして、幾太郎を交えて夜を徹し
て歓談した。
 翌日、勉三は道路開削願の書式を役場で聞いた。
 そして、その書式にならって、佐二平と勉三は利別〜帯広間道路の予算作りに没頭し
た。兄は弟の姿を見て、頬の肉がそげ落ち、一人前の開拓者になりつつあることを感じ
た。十九日、その見積書を大津村戸長へ提出した。
 二十日、それを終えると佐二平と勉三は、利別道路と生花苗願地の件を釧路郡衙に提
出するため釧路へ向かった。そこで行われる試験に臨む金蔵は、利発そうな目を輝かせ
いた。途中、馬が転倒する難行となり、佐二平はオンベットで波に飲まれ、溺れかかる
るのだった。
 用件を済ませると、彼らは大津出張所、そして生花苗牧場、再び大津、そこから丸木
舟で帯広へ向かった。
 九月一日午後四時、佐二平と勉三は、揃って帯広の土を踏み、早速に耕地を眺めた。
さほど広くは思われないが、開墾の苦労が偲ばれ、佐二平はひと知れず涙ぐんだ。
 二日、勝、銃太郎二幹部も加わって帯広地内を巡視した。そして、然別のオチルシ丘
に登り、十勝野を眺望した。夜には旧勉三宅で会飲し、親長や三幹部が親密に従事して
いることに安堵する佐二平であった。その時には、銃太郎の胸底にひそむ黒い陰を見る
ことは出来なかった。
 三日、雨となる中、佐二平と勉三は帯広川の水利を視察するが、雨は容赦なく衣服を
濡らし、ふたりは蕗の葉を頭にかざして歩いた。
 四日、測量師加藤が帯広へ来ていると知った勉三は、そのテントを訪れ、地図を借り
て帰った。それを暗いランプの下で佐二平が夜半まで模写すれば、勉三は野帳を写して
共に徹夜した。
 五日午前七時、佐二平と勉三は帯広を発とうと舟に乗ろうとした時、銃太郎がそっと
分厚い封書を差し出した。勉三はその内容を知っていたので、兄がどう反応するか心配
したが、平常のままであった。
 これは晩成社再建の建白書であった。聞き入れないなら幹部職を辞したい旨、書き添
えられていた。

 銃太郎の建白書も名文なので、全文を掲載しよう。
《古語に曰く、利を以て利となさず、義を以て利となすと。かりそめにも天下を以て己
が任とする者はこの如くならずんばあるべからず。ここに敢為の士あり、姓を依田、名
を勉三と称す。すこぶる慷慨家なり。つとに拓地育民の大志を懐き、かつて北遊の意あ
り。明治十四年四月を以てついにこれを決し北海に向かう。
 爾来全道を周遊し、風土人情を観察し、以て大いに発明するところあり。君、実兄あ
り、佐二平と称す。すこぶる名望にして、その名一国に冠たり。二君相議し、農牧の事
業を北地に起こし、大いに天下を益せんとす。
 また、これを四方の志士に謀る。諸子これに応ずる者多し。ついに一社を結び、号し
て晩成社という。けだし大器をなすのいわれなり。君、また義兄あり、園(善六)とい
う。温良恭謙、衆の推すところとなり、社長の大任を諾す。君また伯父あり、鈴木真一
という。機知ありて写真を業とす。よく人物を影写し、またよく君の心意を写取す。
 君また寄友あり、虚堂(勝)と称す。性、敢勇、会うて中学の教授たり。糞尿を担う
て子弟を薫陶す。糞尿先生の名あり。四隣に聞こえ、君のこの挙あるや、また糞尿を担
うて移民を督し、怒涛を破して十勝へ入る。君また一友あり、虚堂(銃太郎)と号す。
身体剛強よく労働に堪え、精神活発、よく時事を論ず。憂国の士、君が義挙を感じて以
てこの挙をたすく。あに利を以て利と為すものならんや、いわゆる義を以て利となすは
けだしこれを称するならん。
 しかして義旗十勝にひるがえすや旱損、蝗害代わるがわる至りて穀菽(こくしゅく)
稔らず、金穀数々絶え、飢渇こもごも至り壮丁失望し、婦女泣涕す。
 しかりといえども君これがために挫折せず。一身をなげうって南北に奔走し、よくそ
の秩序を乱さず、忍耐以てこれを勉(つと)む。
 佐君(佐二平)また許多の私財を投じてその欠乏を補し、忍耐以てこれを佐(たす)
く。誠に二君はその名に恥じざる志士なり、仁者なり。
 ああ勉君(勉三)これを勉むるや、かくの如く佐君これを佐くるや。この如く諸有志
これを賛助するや。この如く斯を以て、婦女糟糠をなめて五年の苦界を過ぎ、壮丁来耜
(らいし)を担いて草莽を開く。ほとんど十万町歩、人誰かその義挙と忍耐とに感ぜら
らんや。
 吾輩、今日努力するもこれを感ずればなり。しかるに説をなす者あり。われを語って
曰く。子は晩成社の社員ならずや、何ぞ自負の甚しき、子の何の得るところあってか、
これを称して義挙という。子知らずや、借金すれば一割五分の利子を払わざるを得ず、
耕作すれば二割の地代を納めざるを得ず。しかして解社に至るも地主たるは甚だ覚束な
し。このままなる時は子々孫々小作人たり。奴僕たるを免れず、永世奴僕なるも国家に
尽くするところあれば可なり、というか。耕夫あに天下を以て喜憂するものならんや。
何ぞ植民に対し惨酷なる。
 偶々一事を興し、以て義挙を佐けんとするも金を惜しんで、これに応ぜず。かは益な
し、これは利なし。一利を生ずるは一害を除くにしかず、と言い、遅々として成すとこ
ろなし。
 いやしくも天下の公益を図るもの大利を見ざるとも、時にあるいは奮起し以て公衆の
益を謀るべきなり。その植民においておや、何ぞ義挙と言うを得ん。
 子またその忍耐を嘉みす。しかれどもわれを以て見る時は、未だ忍耐を以てこれを称
すべからず。止むことを得ずして荏苒(じんぜん=歳月が長引く様)これに至るのみ。
かくの如きは即ちいわゆるやせ我慢なり。やせ我慢は志士の貴ばざるところ、また以て
事を貫くこと難し。一歩譲り、これに借すに忍耐を誇るは愚なり。それを忍耐を美徳な
り。しかりといえども功成り名遂ぐるに至るの具たるに過ぎぬ。
 コロンブスの発明における、ワシントンの独立における、また韓信の匍匐における、
皆忍耐の力なり。しかりといえどもコロンブスにして米国を発見せず、ワシントンにし
て独立を成就せず、韓にして斉王たるを得ずんば、誰か忍耐を称するものあらん。
 今、晩成社を見るに已に五年の歳月を去れり、その目的を問えば、十有五年にして一
万町歩を開くべしと、しかして今や歳月はその三分の一を過ぎたるに非ずや。
 しかりといえども、植民は僅かに数十人にして農場は僅かに三十町歩に過ぎぬ。真に
勉励忍耐ならば、あにかくの如く遅々として進まざるの理あらんや。
 道路なく運輸に苦しむを以て、植民を移さずと言うか。これ等の不便は元より覚悟な
らずや。牧牛の利を説き、馬耕の益を唱うと言えども、未だ盛んにこれを行わず、何ん
ぞ耕夫の辛抱弱気を責めて、己の注意足らざるを省みざるや。何ぞ株主たるもの年々実
地を視察し、以てその得失を議せざるや。何ぞ職員たるもの犬馬の労を止めて、智能を
顕さざるや。
 かくの如くして何ぞよく勉め、よく忍べと言うべけん。
 子を以て如何となす、と。語り終るや吾輩を憤然叱して曰く。汝、われを恥かしむる
か。何ぞ無礼の甚しき、堂々たるわが晩成社、何ぞ汝の言のごとくならんやと。やや久
しゅうして平気虚心論者の言を察するに、語気甚だ過激といえどもまたその跡なし、と
せず。これを以て吾輩賤劣を顧みず、論者をして再び暴言を発せざらんかを力め、肺肝
を挫く爰(ここ)に久し。
 今や幸に惣代たる依田佐二平大人この地に来りて、実況を察せんとするに会い、今日
会晤の栄を賜う。何の謝せざるべけん。何ぞ心事を尽さざらん。
 大人大度よく人の言を容る。泰山の如く河海の如しと、あえて不遜を顧みず、いささ
か所感を述べ、大人の憐察を仰がんとす。              恐懼頓首
   
 また、社則異見と題するものも同封されていた。それには具体的な数字を上げ、
「一戸を五人と仮定し、うち子供二人とすれば、労役に堪える者は即ち三人なり。この
三人にして四町歩を耕すものとみなし、左の割合によってその得失を償わざるを見るべ
し。ただし一戸の社債三百円と仮定すれども、その多少によって損益に変更あるべく、
疾病、事故ある時は、自然多少の出費を要すべし。今この割合を以て見れば、無事豊作
なるも年々金十四円五十銭の不足を生ぜり」
 とまで、訴えている。
 佐二平は、この文面を読んで深く感じ入った。これほどまでに国家を憂い、晩成社を
思い、耕夫、友人、知人を愛する心がどこにあろうか。
 そして、勉三の立場を思う。弟は弟となりに晩成社の立て直しを考えている。生花苗
牧場での実験を帯広に移そうとしているのだ。
 さすがの佐二平にも、これに甲乙をつけるのは難題中の難題であった。
 銃太郎の辞表は後日受理されるが、現地責任者である勉三に委ねるしかない、苦渋の
選択となった。また、頭の中では、これまで辛抱してくれた耕夫に、地主となれる方策
を考え始めていた。

 幹部の肩書をはずしても、銃太郎の態度はさほど変わらなかった。だが、勉三の心中
に沈殿するものが生じ、この男には絶対負けたくないという意識であった。でも、平行
線ながら友情は生涯続いた。
 佐二平は、再び生花苗に立ち寄り、九月十九日正午、伊豆への帰途についた。それを
勉三、幾太郎、文三郎は見送って、共に歴舟に泊まった。
 翌朝、佐二平は勉三だけ散歩に誘い、
「文三郎の顔色がすぐれないではないか。リク同様、伊豆で静養させるがよい」
 と、命令口調で言った。
 勉三は、銃太郎の建白書の結論を告げらるかと、兄の後をついて来たので、一瞬、呆
気にとられた。彼の脳裏には、俊助、義姉ふじ、弟唯四郎と次々と逝く近親者の面影が
浮かんだ。己の開拓の犠牲となって死んでいったように思えた。
 やがて、勉三の脳裏にリクが思い出された。年初伊豆に行った際、少し顔を見たが、
まだその色差しは良いとは言えなかった。開拓魂が崩れそうなので、やさしい言葉をか
けずにきたのだった。
 勉三は小声で、
「リクのその後は、どうですか」
 と、聞いた。
「私も、それを言おうとしていたところだ。松下の近藤医院の処方薬が的中したという
か、血色が戻って来た。こちらに向かう時、リクに『北海道へ一緒に連れてって』と頼
まれたが、無理をすると元も子もないからとなだめてきた。次には必ず連れて来る」
 と答えた。
 その言葉によって、勉三の心は軽くなった。入地以来、文三郎の顔をじっくり見てい
ない自分に気づき、改めて凝視した。既に四年の歳月は流れ、容貌は大きく変化してい
た。髭でそれは被われ、髭と髪の毛には生気が感じられなかった。
 文三郎は、その視線に気づいて咳払いした。
「お前、体の調子、悪いのだろう。佐二平兄が気遣っておられた。伊豆で静養させよと
な」
 と、勉三に言われ、何時にないやさしさに狼狽した。
「いや、大丈夫です。私がいなくなる訳にはいきません。馬も牛も豚も山羊も、みんな
死んでしまいます」
 と、言った。
 勉三は、生き物相手の仕事の大変さを思った。一日たりとも体も気も、休めることは
出来ないのだ。
 ようやく文三郎は説得され、家畜の飼育手順を他者に教え、十二月十九日、伊豆へ向
かった。しかし、半年後に不帰の人となる。