=勉三こぼれ話9=

   いっ時の至福
  水 田 所 の 宴

            =土地売却の真相・銃太郎との関係=       

 途別農場は帯広の東、現・幕別町依田地区で、緩やかな谷間の地形をなす。水田所に鈍い
日射しがさし込む大正九年十一月某日、一堂に会したのは、晩成社結成時の三幹部依田勉
三、渡辺勝、鈴木銃太郎、それにアイヌ指導者安田巌城、伏古水田開発者津田禎次郎であ
る。いずれも農業者だが、髭をたくわえた学者、いや羽織袴の仙人である。

 水田所と呼ばれるこの小屋は、勉三夫妻が五年前に移り住み、昼夜を分かたず野良着の
まま、水田開発の指揮をとった事務所兼倉庫である。水拭きするが色あせた畳数は六枚、
接待者として妻サヨ、事務員鈴木幸吉がいる。

 勉三は、こんな至福の時があってよいものかとわが身を疑い、怖くさえ感じる。欲をい
えば兄佐二平、公私に厄介をかけた善六がいてくれたらと願う。だが遠方、兄は老齢、後
者に至ってはこの五月に鬼籍入りしている。

 晩成社移民団二十七名が、オベリベリに入地したのは明治十六年、すでに三十七年が経
過している。無限に苦難は襲いかかり、故に不感症となって立ち向かい、万死に一生を得
た思いである。夢中の夢、長くも短くもあり、神はこの日という、粋な帳尻合わせで報い
てくれたように思う。

 この宴は、勉三の農業人生集大成を祝うものである。小高い丘は 植樹され、「徳源地」
と命名されたばかりである。今春、伊豆での総会で、【中央地およそ三町歩以内を風防林、
ほか六町歩以内を生産地とし、これすべてを「神苑徳源地」となすこと。その生産地収入
純益を五分し、その一分ずつを、徳源地鎮守の祭典費、残余は貧民救恤。社殿修築費。神
苑内田畑の改良、道橋、用排水を整理し模範地となす。当農場田畑、道橋、用排水を神苑
にならい整理。近隣集落の道橋修繕を当農場にならい補助すること。また、他の方法をも
って積み立て大正五年に売り払った帯広の土地幾分かを補足すること】と、退勢から攻勢
に転じる決議がなされる。やがて佐二平撰文、筆になる石碑、神社建立の計画がある。

 滅多にない「もしも」が、勉三の頭によぎる。四年前の総会で「なおかつ十五万円の負
債となれり。うち事業に投資せしものありといえども、多くは利子の長年月積累せしもの
なり。しかれども開墾において三百五十町歩あり、故にこの事業の国家に対するはけだし
尠少にあらず。これ諸君の国家に対する功績の大なるものなり。負債累々倒産に至るは業
務執行者勉三不肖のいたすところ、その罪軽からず」と白旗をあげたのが嘘のようである。

 そして弟善吾と土地売却のため東奔西走する。小樽や札幌で交渉したMは、足下を見透
かして四農場一括購入をほのめかし、総体と一農場価格を示せという。これに応じると、
生花苗牧場と途別をお手盛りで釣り上げ、総体をこちらと同値にする。そしてMは資金の
都合がつかないと二分割を申し出て、帯広と売買(うりかり)二農場を登記する。やがて
他の登記日到来から督促するが延期され、ついに破約となる。勉三は嵌められたと気づく
が、紳士の約束事として以来口をつぐむ。仮に二農場百四十五町歩の売却がなければ、直
後の地価高騰により晩成社は莫大な資産を有し、のちの負債まみれ解散はなかったであろ
う。また、途別農場が残らなければこの宴もない訳で、不思議な思いにとらわれる。

 それに関するエピソードを紹介する。帯広にある旧区裁判所用地は一万七千百六十一坪
で、うち八千九百一坪が大正七年十月、内務省へ返還された。そして返還地全部が十二月
五日、帯広町に払い下げられた。総額三万円、坪あたり三円三十七銭であった。それを翌
八年二月、町は宅地割りをし、公会堂に於いて必要地以外を競売に付した。二十三戸分、
四千三百四十六坪を十四万四千四百六十七円余で売却して十一万四千四百余円の利益を上
げ、庁舎を建設しても剰余金がでたという。

 因みにこれを大正五年、晩成社が売却した帯広の宅地三百七十八坪(売値約百四十円)
を坪三十三円二十四銭で計算すると百倍の一万二千四百七十四円余となる。なお、畑地四
万三千五百坪(百四十五町歩=売値二万三千五百円)を二年後宅地に準じて売却したなら、
莫大な資産を有したに違いない。憶測の域をでないが、Mはこの日あることを知っての取
り引きであったろう。 (注=裁判所地は十倍だが、晩成社宅地においては百倍)
 また、カネは後日「私共は犬の役をかっでて『ここ掘れワンワン』的に宣伝に努めまし
た。犬は事業には直接関わりはなく、その宣伝で集まった後進の人々は成功しています。
犬は犬だけの使命を果たしました」と口述している。勉三もこの思いで、紳士の約束事と
して口をつぐんだのである。

 続いて勉三は、元三幹部が全員揃うのは何年ぶりかと十本の指を何度か折り返す。銃太
郎とは入植三年後より表面上反目したままで、この顔揃えは最高の安堵となる。互い死期
を悟る年代となり、素直に返ったのだと思う。己六十八、勝六十七、銃太郎六十五である。

 銃太郎との反目は、伏線としてアイヌ娘コカトアンとの結婚を反対したことによる。ク
リスチャンで進歩的な父親長、妹カネですら、異文化異民族者を長男の嫁にさせじと、勉
三に説得してくれと懇請する。銃太郎は牧師資格者で、アイヌ民族との心身の結合こそ北
海道開拓の基盤になると主張する。勉三は術なしを承知の上で、頼まれれば責任者として
行動せねばならず、それがこじれ議論しても分かり合えない不仲となる。幹部辞任覚悟の
晩成社建白書も、耕作人的立場と、経営側で規約作成者勉三との立場が噛み合わず、帯広
視察に訪れた佐二平に直訴し、辞任が認められる。だが幸と不幸は表裏の関係で、勉三は
生花苗、勝と銃太郎は渋更、音更、然別などに分散、競い合って十勝の開拓は進む。

 思い起こせば、北海道開拓を志したのはケプロン報文で「そもそも本島(北海道)その
広大たるやアメリカ合衆国西部の未開地に等しく、その財産は無限の宝庫である。かかる
肥饒の沃野を放置するは日本政府の怠慢で…。この開拓に着手しなければ外国に侵略され
るであろう」と極言され、また、慶應義塾で諭吉に「本邦の人口は年々激増し、耕地がそ
れに伴わなくなる。今こそ不毛の地を開拓しなければ食糧は欠乏をきたす」と言われ、「ま
すらおが心定めし北の海風吹かば吹け波立てばたて」と真っ正面で受け止める。その返す
うねりは勝、銃太郎を巻き込む。それにしても十勝選定は、間違いだったのであろうか。
十勝有望論に遭遇、札幌近辺の開拓を勧められても、十勝の草分けを決め込む。遠い消費
地、道なき奥地、野火、長雨、旱魃、霜害、飛蝗の食害に苦しめられ、後から続くはずの
天草民二百戸の足音は聞こえず、二階にあげられ梯子を外された苦難の連続。ふたりの息
子の幼逝、実弟、義兄の死、リクとの離婚、一族の散財、もっとも気になる旧耕作者に報
いてやれなかった。しかし、十勝野は牧場、穀倉となって輝く。

 水田所の宴にも酒はつき物である。カネに家庭を任せ顧みなかった酒乱ぎみの勝も、緊
張を解かずにいる。銃太郎とは目と目で互いが尊敬しての行動であったことを確認する。
そして各自用意した歌を短冊に記す。禎次郎が「松浦の大人(おとど)の望成りにけり十
勝川辺の公園の秋」。巌城は「十勝野に水田開き稲うえし はじめの祖(おや)は君にしあ
り」。銃太郎は「家毎に積むや穂通(ほみち)の途別村かても豊かに見ゆる里かな」。勝は
「今ははや昔がたりとなりにけり オベリベリプの新墾(にいはり)の親」。これに「有難
し雨の降る日の蓑とかさ錦に勝ることな忘れそ」と、勉三は応じる。

 やがて宴たけなわとなり、勉三は「送別」と題する漢詩を示し、特別に揮亳を願う。『君
去春山誰共遊/鳥啼花落水空流/如今送別臨渓水/他日相思来水頭』(君去りて 春山に誰
と共遊ばん、鳥啼き花落ちて水空しく流る。今のごとく別れ送りて渓水に臨めば、他日相
思うて水頭に来るらむ)の七言絶句である。まず「君去」を禎次郎、「春山」を勝、「誰共
遊」を巌城、「鳥啼」と銃太郎が墨書する。ここからは 回章し「花落」を茂岩の草分け田
口秀正、「水空流」を二宮尊徳孫・興復社長・牛首別農場長尊親、「如今」を元河西支庁長諏
訪鹿三、「送別」をのち芽室村長大村壬作、「臨渓水」を元晩成社員波多腰円一、「他日」
を旭農場長小林直三郎、「相思」を善吾、「来水頭」と伊豆の佐二平が結び、一つの詩幅と
なる。

 やはり至福の時は束の間で、勉三には病魔と経営難が襲う。「晩成社には 何も残っては
いない。しかし、十勝野は…」と、鈴木真一の孫三原武彦にもらし、帯広にて大正十四年
十二月十二日帯広で生涯を閉じる。享年七十三歳であった。